絵画の言葉化
念頭にはその年にやることを考えてきた。ところが、今年は改めてそういう事にならない。このところやることは絵を描くことだけだから、これからの正月はこういうことになりそうだ。「2017年は絵を描く。」これだけで終わりである。役目というものがない。問題は絵だ。これで自分の絵が描けないとすると、言い訳がない。名画を描くためではない、自分の絵を描くためだけなのだから出来ないわけがない。必要と考えているのは、絵を語り合う場である。たぶん自分の確認ができるのではないか。これを作りたい。これが新たにやる今年の具体的な計画。こうして、まだ元気なうちに絵に専念することが出来たのはありがたい。絵が少しづつ自分に近づいている実感がある。これは良い傾向である。次に描く絵をどうしようとか、どう描くか。どう進めようかなどと思う事はない。ただ、自分というものに向って描き進める。そして終わってみて考えることになる。何をしたのかである。もちろんやることはあって描き始めるのだが、意図を持って進めるという事でもない。むしろ意図を捨てて描いている。
描いて見なければどうなるのかはわからない。その場にゆだねる。ゆだねることで自分というものが出現するかもしれないと考えている。描き出す前に何を描くのかは決める。誰でもそうである当たり前のことだろう。庭を描く。畑を描く。そいう何もあるが、畑の何を描くのかという事になる。土を描こうという時がある。土の持っている力のような。畑をやっていてわかる良い土というような感触。草を描こうという時もある。花を。こういう更なる具体的なものを通して、その先にある何であるかだ。つまり、土を描くとして土の何を描くのかが分からなければ絵にならない。土という得も言われぬ、未知の豊かさを秘めた物に向かい合い、描けるかどうかと進める。土はすべてを生み出す。土台である。全てを包み込む。生命の源である。このように言葉化しているものを、描けるかである。漠然と土は美しいなあーと描くのが悪いという訳ではない。私にとってはそれではだめだというだけのこと。
土がどんな色をしているか正確に写すなら、その土を画面に塗ればいいだろう。しかしそれでは土の色とは程遠いい。自分の頭の中にある土というものが描けなくては意味がない。しかし確かにその土は、視覚的に確認している土だ。単なる観念ではない。絵に描くとは、その土の意味が分からなければその色を塗るなど出来ない。と考えている。土の意味などという理屈っぽいことは絵を描く人間らしくない、考え方かもしれない。そのややこしいところが自分の絵と思うしかない。とはいえ土を描いて居るときには、そんなことは全く忘れている。良い色だなあ―、良い感触だなあー、良い匂いだなあー。このすべてをどうすれば描けるだろうと思うだけである。2,3日して冷静になって初めて、土の意味をとらえていないなどと、反省をする。
それにしても絵は不思議なものだ。なかなか描けない。こうだと思って描いて見て、それがだいたいは違っている。その理由ははっきりとはしないが、描きたい方角は分っているつもりで始めるのだが、描く方法が見つからない。見えている物の描き方が分からない。あの空の感じとは思うが、あの空になることはない。あの空には目に見えている物だけではない何かを見てしまっている。水彩画に変わった時に絵は変わった。紙を変えた時にも絵は変わった。筆を変えた時に絵は変わった。それは自己否定が絵を描く方法に及んだからだと思っている。いつも来た道にはまり込めば、新らしい方角には行けない。新たな方角は、新たな手法が必要であろう。絵を言葉として語ってみる。何がかけないのかを言葉化してみる。絵を描くということは分からない自分というものに直面しているという事になる。絵の不思議は自分の不思議でもある。