野球賭博でまた摘発
野球賭博に終わりが見えない。原因は政府の賭博に対する姿勢に根本問題がある。政府が税金不足を補うために、公営賭博場を開設している。サッカー賭博、競輪、競馬、競艇、オートレースと賭博のテレビコマーシャルまで頻繁に流されている。政府公認の賭博が奨励されていて、何故、野球賭博がいけないのか理解できないのが普通であろう。法律で禁じられている理由は、倫理的な問題ではない。公営賭博の配当金を少なくしておきたいので、高額配当の私設にお客が流れてしまうのを防ぐというような理由であろう。暴力団主催の方が配当金が良いので違法なのだ。政府は新たにラスベガスのようなギャンブル場を作って、第3の矢にしようと画策するほどなのだ。すでに世界で唯一のギャンブル大国が日本なのだ。パチンコ屋というような賭博場が、町中の至る所にある。アメリカが銃社会なら、日本は賭博社会だ。
明確に倫理的な問題として賭博の悪弊を取り上げるべきだ。道徳を小学校の教科に入れるなら、まず、賭博がいかに道徳的に悪いことかを教えるべきだろう。あぶく銭を得ようなどという悪事は、政府以外はやってはいけないと教科書に書けばいい。そんな拝金主義の国家が一方で、小学生に国のために尽くせ、など誰が書けるだろうか。まず、公営賭博を禁止することだ。そして、スポーツの魅力は健全な肉体に、健全な精神が宿るという原点に戻ることだ。お金のためではなく、国家の為でもなく、自分個人のために正々堂々戦う事を自分の生き方として追及する魅力がスポーツだ。巨人軍の球団社長が調査の難しさを弁解している。そもそも調査など不可能である。ばれなければ問題ないと考えて、賭博をしていたのだ。自己申告などする訳もない。そもそも今の社会で子供の頃からプロ選手を目指すという事は、自分の肉体をかけた博打をしているようなものだ。学校教育が学校の経営のためにその温床になっている。
しかし、拝金主義の日本社会ではそんなことは口が裂けても言えない。賭博のどこが悪いのだ。という事が表社会の常識になりつつある。そして、スポーツというもの自体が金もうけの手段そのものになりつつある。必死にスポーツをする気持ちの背景にあるものが、一流になってお金を儲けたいという気持ちである。プロ選手を禁じていた、かつてのオリンピックの精神を考えるべきだ。スポーツは美しい人間の姿だ。無償の行為であったからこそ美しい姿だと考えていた時代が、50年前にはあった。ソビエトという国が育成する選手の問題が登場した。生活保証の国家の英雄選手に対抗するには、プロ選手の解禁しかないという事になった。そして、ドーピングである。勝つためには、身体をおかしくする違法薬剤の使用もいとわないという、醜い姿をさらけ出している。テニスの妖精が薬で出来ていたのかもしれないという怖さ。
資本主義社会の象徴が株式という賭博である。人間の生き方を拝金主義にした。能力を博打的に勝負する社会。学問をすることを、良い会社に就職するためとしている。良い会社に入り、良い収入を得て、上の階層に所属することを人生の目的にして恥じない。それはまるで賭博のような生き方ではないか。努力するという事を人に勝つという事にしている。そうした競争から人間の能力を引き出そうとしている。ここに問題があることに気づくべきだ。人間競争しなければ頑張らないという先入観がある。それは資本というものが、嫌なことを我慢してやらせようとするからだ。好きなことを自由にできるのであれば、人間は頑張る。競争でなくとも面白いと思えば人間は努力をする。努力をした結果を正当に評価される社会であれば、競争でない頑張りが生まれる。自己新の頑張りである。それは強者から見ればつまらないことかもしれないが、他者と比較しない生き方を許し合える社会はあり得る。