絵を描いていると行き詰まる。

   

風景を描いている。篠窪というところの山の畑を繰り返し描いている。先日山の畑を耕されている人と話すことができた。挨拶させてもらいたいと思いながら、なかなか顔をあわせることがなかった。やっと上手く行き会えて描かせていただいている許可をいただくことができた。良いよ。と言われてずんずん谷の下の方に行ってしまったので、それ以上は話せなかった。雨の日だったのだが、雨が降っているから焚火をしに来たようだった。その後貸している地主さんという方も見えて、許可をいただくことができた。もう一人の方が向かいの山で仕事をしていたので、その方にも許可を頂いた。写真でなくて絵を描いているのかと不思議そうだった。その畑を直接描いているというよりその周辺をあれこれやっている。いまだ何かが描けたという感じではない。どうやってもだめなものだ。絵にしようと考えているわけではないので、その場所の空気に少しでも近づければいいと思うのだが。

なんとなく絵空事で現実化できない。それが続くと吐き気が続くほど苦しくなる。それはなら止めればいいのだが、それもできない。何か行けそうな感じもあるからなのだが。今のところどうにもならない。その為にもう何か月も同じ場所を何十枚描いたことか。その場で見ているより家に帰ってみてみると、案外に描けているようにも見える。それでまた持ってゆくのだが、現場の持っている空気とは程遠い。何がいけないのだろうかと思う。それでもだめだという事はわかるのだから、現場で何かが見えていることは確かなのだ。それならどうして見えているものが、絵には描けないかが問題である。絵という表現法ではそれは描けないものなのだろうか。写真では全く違うものになる。私が見ようとしているものとは違う現実らしい偽物を作り出す。絵でもできないという事なのかもしれない。絵というものは現実の周辺のことなのだろうか。

写真はそれらしいと思わすことがまずいと考えている。いかにも現実を写しているのに、私には見えている大切なものが抜け落ちている。免許書の顔写真が、自分のようではあるが自分という人間ではないというような違いである。抜け落ちているのに現実風であることが誤解の種になると思っている。確かに明治の写真などを見て、その時代を想像するという事はある。ところがその想像は本当のその時代を写真という切り取り方で、偽造している。そこがただ写すという事の良くない所だと思う。本当の時代の空気は写真には残らないと思う。それでは絵ならと思うことになる。梅原の絵は時代の精神を表していると思う。鈴木信太郎氏の絵も昭和という時代の精神を伝える。絵は写すのではなく作り出すという事だろう。それは見る側の受け取る読み解く能力との兼ね合いなのかもしれない。絵ならかけるという事はやはりあるのだと思う。私の絵が里山にある空気を描けていないのは、里山の精神の把握不足なのか。才能不足という事なのかもしれない。そうであるとしても、やれるところまでやってみるしかない。

このブログを読み返してみると、自分というものがずいぶん傲慢であることがわかる。思っていることをできるだけそのまま書いているので、とんでもないことも書いてある。そうではあるが、それが大切だとも考えているからだ。絵も同じことなのだが、絵は思いのまま描くことが、思いのようにならないところがある。文章の方が自分の考えていることに近い。それは言葉で考えているからなのだろう。しかし見ているという事を描くという事では、距離があるようだ。この距離を少しでも埋める努力をしなければならない。このだめだという事で、絵においてはさすがに傲慢にはなれない。反省ばかりである。ブログにおいて人と比べるようなことはありえない。日記を人と比べてもばかばかしいことだろう。絵も同じで、人と比べてはいない。ただ、自分の無能に情けないばかりである。努力の仕方がわからないところが苦しい。

 

 - 水彩画