清原覚せい剤事件

   

有名人の繰り返される覚せい剤事件がまた起きた。2年前文芸春秋で覚せい剤を使用していると書かれていたというから、何という愚かな人間であろうか。警察に監視され、報道各社に付け回されていながら、止められなかったという事である。野球選手の賭博事件の時にも書いたのだが、野球選手の置かれた立場が人間が育つような環境ではないという事だ。それはプロスポーツ全般に言える。スポーツで優れていれば、あとのことはどうでもいいと言うような環境で人間が育つわけがない。しかもその目的がスポーツで優れていれば、驚くような大金持ちになれるという目的である。拝金主義の温床になりやすい。それを良しとする社会である。人間が出来ていなければ、挫折した場合簡単に覚せい剤に手を出すというようなことになる。

強ければ許されるという能力主義の考え方が、こうした事件を起こす。今回も清原選手に憧れた少年たちにどれほどの悪影響かと嘆かれている。が違う。少年たちに与えている悪影響は、野球選手として優秀であれば、他のことは構わないという、高校野球の環境である。健全な精神が、厳しい野球の練習によって培われていると、思いたい。しかし、運動能力の高い人は生まれつきである。高校生の時に陸上競技を本気でやった時期があったので少しわかる。どれほど練習しても、オリンピックには絶対に出れないことは初めからわからざる得なかった。学校にかなり強い柳さんという一年先輩の人がいたが、その人ですら、全国大会に行けなかった。所が東京では実に弱い私でも、石川県大会なら、もしかしたらというレベルだった。ともかく層が厚い。その一握りの天賦の能力が清原選手にはあった。

PL高校が甲子園に出るためには初めから必要な人間である。そしてライオンズに入り一流選手になる。そここでも必要とされ回りが盛り上げてもくれただろう。巨人に移籍し人気はあったが大した活躍は出来なかった。確かオリックスに移籍して引退した。その後野球関係で仕事はしなかった。たぶんできなかったのだろう。自分で新しい状況に適応する自分を育てることは出来なかった。清原選手が脱落したのは、引退後であるからまだましな方だ。高校野球時代にすでに人生を脱落する人が大半である。野球選手になって有名になり、大金持ちになるという夢を抱いて、不可能な自分に気づかされる。それが普通なのだ。その時にダメな自分というものと向き合い、全力で努力は出来たのだからそれでよかったと思える人は少ない。多くのプロスポーツを目指した人間が生まれつきの能力差であきらめざる得ないという現実に直面する。

能力主義の結果である。競争に勝てばもてはやされ、敗れれば見向きもされない。それを本人の努力の問題とされる。生まれついての才能がある人が努力を的確にしたからプロの選手になれる。能力がないものもその人なりに目標に向かい努力することは、優秀は人と同様に大切である。私が大した絵が描けないからと言って、絵を描くこと止める必要はない。自分という人間を突き詰めるという事が自分の人生にとって、最も重要なことだからだ。清原選手の挫折から学ぶことは、能力主義の克服である。能力主義は資本にというものにとって都合のいい考え方なのだ。資本は自己増殖したがっている。そして資本の増殖に役立つ能力のものを競争で選ぼうとする。人間は能力のいかんにかかわらず不要な者などいるわけがない。それぞれがその人間として精一杯生きていることを評価し合える社会を目指さなければならない。優秀な人で人のためにも余力のある人がいれば、その優秀さを自分一人のために使うのでなく、人のために使えるような社会である。

 - Peace Cafe