パリのイスラム国テロ
パリで大きなテロ攻撃が起きた。世界中で起きているテロが、いよいよパリのど真ん中で起きた。ニューヨークのテロ攻撃を思い起こす大惨事だ。イスラム国の自爆攻撃である。これはまだ始まりと考えなければならない。たとえイスラム国が殲滅できたとしても、テロ攻撃はますます激しくなる世界情勢と考えなければならない。現代の都市社会が無差別テロ攻撃にどれだけ弱いものであるかがわかった。日本も他人事でないことが、理解できたかと思う。多くの人がテロ攻撃に対して、無力であるということを痛感したと思う。しかも、報道の多くは対抗策のないことを嘆いている。フランスは即座に空爆で報復攻撃を行った。そんなことでテロは防げないことはわかっている。むしろこうして、暴力の連鎖が広がってゆくことになるだろうことが想像される。テロをなくすためには、日本国憲法に示された平和主義しかないのだ。
国同士の全面戦争は、起きにくくなっている。軍事力があまりに巨大になり、全面戦争になれば、地球の滅亡が待っているような状況である。こうした行き詰まった状況がテロを生んでいる。テロは格差から来ている。テロは貧困から起きるという報道があったが、そうではない、格差から起きていることを明確にしておく必要がある。それは資本主義の競争の正義が原因である。競争に敗れるものは、敗れる責任を自ら負わなければならないという論理。資本主義というものは、強者に都合の良い思想だ。勝つものが正義となる。著名なものが価値あるもので、無名のものは無意味なものになる。人道主義的にあらゆる人間が平等であると建前では言われながら、能力差というものは差別になっている。能力があり、努力をしたから、勝者になった。裏返せば、能力がなく、努力をしないから、敗者になったのだ。その責任は当人にあるという、差別である。世界1は一人という思想が資本主義だ。人間の格差、人種の格差、国の格差。これがテロになって表れている。
テロをなくすには格差をなくすほかない。世界は極端な格差社会に進んでいる。アメリカのような豊かな国ですら、食事も満足にない子供たちが多数存在する。その貧しい子供たちは、肥満なのだそうだ。安い食事は肥満を生むのだそうだ。アフリカの木がとは違った、何という社会のゆがみか。ヨーロッパに押し寄せる難民がいつか、テロの要員になる可能性がある。ヨーロッパで豊かな暮らしを期待して移住したとしても、そこには差別があり、極端な能力主義がある。かならず、社会から落ちこぼれてゆく人たちが生まれる。資本というものからは、利用できる労働力である内は価値を見出されるが、いったんその枠から外れてしまえば、無意味な存在として排除される。まして、キリスト教徒でない異教徒である。イスラム国に参戦するヨーロッパ出身者も多数存在する。私がいたころのフランスでの、アラブ人に対する差別はひどいものだった。
日本は日本国憲法に示されたように、独自の平和外交を展開しなければならない。武力を用いない国際紛争の解決である。それは現実の深刻さを見ると、無力に見えるかもしれないが、それ以外に道はない。第2次世界大戦を経験した世界が痛感し、その悲惨の末生まれたのが日本国憲法である。武力で解決できるもはない。戦争では何も解決は出来ない。日本政府は国民に対して何の断りもなく、有志連合とやらに入っていた。安倍氏などは当然の顔をしているが、有志連合に入らないで、日本らしくやることはいくらでもある。日本がアメリカの手下に入ったとしても、さしたる役には立たない。アメリカ、ロシアが空爆してもダメなところに、自衛隊が加わったとしても、アメリカにはご褒美をもらえるかもしれないが、テロの撲滅には何の役にも立たない。日本は平和憲法を手段として、日本独自の平和主義を愚直に貫くことの方が、まだテロ撲滅に役立つ。