食料自給率の目標値の撤回

   

紀伊半島 中盤全紙 民宿の窓から何度も描いた場所だ。不思議な景色なのだ。

2020年度の50%の食料自給率を目指してきた。日本の方角である。ところが、いとも簡単にこの目標を撤回したらどうか、という案が財務省から出てきた。迷走日本である。39%がこのところのやっとの数字である。食糧自給という国の基本目標すら曖昧にしてしまう政府なのか。50%と決めたときに、よほどの手を打たなくては、不可能な数字だと思った。所が政府案には具体性はなく、補助金がいくつか出たにすぎない。それについては自民党も、民主党もない。どうやって食糧自給を実現するのか私には皆目見当がつかなかったが、ずるずる延ばしにここまで来た。そして目標までの半分の6年が経過しようとして、何とも目標の撤回である。政策の一貫性がなければ、国の未来は危うい。そしてTPP交渉である。何をどうやって50%に持ってゆくのか、まじめに考えていた方がバカを見た。食料自給率50%は結局絵に描いた餅だったのだ。

昭和40年度には73%あった自給率が、現在では39%である。一番は日本人がお米を食べなくなったということがある。今でもお米を昔の様に食べれば、50%クリアーは簡単なことだ。しかし、パンへの支出がお米を越えたという事がいわれている。まんまとアメリカのパン食推進戦略にやられた。あの学校給食のコッペパンが災いした。食料自給率回復は、地場・旬・自給である。このような食生活に戻れば、忽ち食料自給率は改善される。と同時に日本人の健康も回復して、医療費の削減までできるはずだ。CO2削減にも成るし、日本の安全保障にもつながる。食料の半分ぐらいは国内で賄わないと、国家としての存立が危ういというのが、先進国の国家としての最低条件ではないか。現在財務省が主張し出した、50%の目標数字の撤回は予算不足ということのようだ。こんな状況で農業予算が無いというのでは、このさきTPP対応はどうなるというのだろうか。日本が韓国のように、貿易に極端に傾斜した国に成ることは、避けた方がいい。日本の国柄を守り育てる意味でも、食糧自給は高めなければならない。

実践してきた発酵利用の自然養鶏は、食品残渣を利用した養鶏である。地域で出る食品残渣を発酵技術を使い良質な餌に変える。飼料の輸入量と、食品残渣の量はほぼ同じである。もし食品残渣の利用が推進されれば、飼料輸入が無くなる。これだけでも50%達成が近付く。何故食品残渣の利用が出来ないかと言えば、2つある。一つは利用法が未開拓。もう一つは大規模畜産の圧倒的な支配である。50年前は豚やさんといえば、地域の庭先で飼うものだった。地域で出てくるあらゆる食品残渣を餌として、養豚を行っていた。現代でいえば、地域の食品残渣の発酵利用を行い、地域での循環を作ることだ。このとき一番の障害に成るのが、畜産への偏見である。食品残渣は人口密集する地域ほど、多く出るものだ。輸送コストをかけては、輸入飼料に対抗できない。地域のお豆腐屋さんで出るおからを、地域の畜産農家が使う。こうしたこまめな利用の輪を作り出さなければ、輸入豚に負ける。その為の最初の転換は、養豚と言えば汚いという偏見を捨ててもらうことだ。

鶏なら、早朝からうるさいという考えを捨ててもらうことだ。人間の暮らしというものが、どういうものか思い出してもらいたい。市街化調整区域、農業振興区域での畜産は、認める気持ちが無ければならない。確かに騒音や悪臭は良くなかった。しかし、養豚でも、養鶏でも良い事例は沢山ある。そういう積み重ねが、食糧自給には必要である。人口の減少は人間の暮らす場所の、整理と言うことが可能になる。人口が予想通り減少すれば、自給率も上昇する。人口減少局面での、日本の国土の再利用計画。国家100年の計を立てる最善の時だろう。企業的養豚や養鶏は政治的発言力が強い。また政府も大企業育成が方針である。その為に、小さな本来あるべき、地域の畜産が衰退した。こうしたことが、食品残渣の利用が出来ない理由である。自給率50%は補助金などなくとも、やる気があれば出来る数字である。

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