団地ともお・アニメ
足柄平野 中盤全紙(この大きさは手漉きの水彩紙の基本のサイズと言う意味です。P-25号位です。大判全紙と言うものもあります。B番が基本で、良く言われるわら半紙はB-4サイズです。全紙と言うことは、B-1と言うことです。2が付くと半分に切ったということです。3はその半分、4は4回裁断したということです。) 家からの景色も色々描く。最近は遠くに行くより、家のそばで描くことが多くなった。
たまたまお風呂屋さんで見たアニメが「団地ともお」であった。このペーソス感が中々良い。子供より昔子供だったおじさん向きだ。日本のアニメはレベルが高い。だいぶ前から「紙兎ロぺ」にはびっくりさせられていた。両者似たような空気感がある。脱力系アニメ。しらじらしい、無意味な会話と白け笑い中に潜んでいる、本当の気持ち。川柳系アニメ。言葉にできない「あの感じ」が満ちている。懐かしいとか、あの頃は面白かった。では言い過ぎでしらじらしい、どうでもいいし、何でもなかったのだけど、あの時代のことだなあ―というため息。そういうエモ言われぬことで、世界はできている感。アニメならではの特別な世界だ。思い出すものと言えば紙芝居。紙芝居では、黄金バットにストーリーがある訳でもない。ただある一場面を紙芝居調に語るだけである。ストーリではなく、黄金バットの世界を眺めていただけだ。だから、黄金バットが何者かなど、どうでも良いことだった。正義なのか、悪なのかもわからない。それを受け入れるには文化レベルが必要。
何物かという観点での把握を拒絶している世界。黄金バットであるだけで、何かをなすものではない。天狗的存在感だけを見せている。ストーリーはどうでもよく「そのヒーローの感じ」を味わおうとする世界。その系譜にある「団地ともお」であり、紙兎ロぺの世界だ。何故、こんなことを書いたかと言えば、最近は日本のアニメとして、宮崎アニメがあり、アメリカにはデズニーアニメがある。世間ではそれが評判だ。どちらも評価できないからである。紙兎でも、団地ともおでも絵になっている。アニメの絵画に昇華されている。絵と言うものがどういうものかを理解している。だから、ただ現実を写しとろうなどと言う、あさましさが無い。写真的リアルであることが、表わしている範囲が実に絵画として浅いということがよく分る。宮崎アニメであれば、いわさきちひろ風の甘い作画が、嘘ぽい世界だと思わされるところだ。現実はそんなじゃない。心の世界を表すためには、置き換えることが必要なのだ。
今大流行している、デズニーアニメはそれ以前に図柄のリアルっぽいぬめり感がコンピュータグラフィックの限界なのか、絵として耐え難たさを醸しているのだ。幼稚さにアメリカの文化レベルを感じる。と言いながら、あのアニメが日本で大流行と言う恐怖がある。日本人の美的感覚が壊れ始めているのではないか。大丈夫だと思うが、心配に成ってくる。絵画全般にも及んでいる文化の幼児化が心配に成る。日本のアニメは、絵巻物と言う、世界最高の芸術品としての伝統がある。鳥羽僧正の鳥獣戯画は日本最高の国宝の一つであろう。そうした、感性が宗達に伝わり、そして写楽や北斎漫画に導かれる。これが日本の文化の奥行きである。まさか、それがデズニーアニメにイチコロとは驚く。デズニーも白雪姫ぐらいまでは、劣るとは言えそれなりの絵柄を追及していたとみていいのだろう。スーパーマン漫画が冒険王よりレベルの低いことは、日本人の子供は良く知っていた。
紙兎はとくに、後ろに写真を良く使う。この効果がなかなかいい。一種のアナーキーな逆説がある。写真であることを、紙兎と対比させることで、リアルさをバカにしているのだ。これだっていいだよとウソブイている。てきとう、テキトウ。とスカしてしまう。こんなのありかよ。と思わせながら、自分の世界観をむしろ強く打ち出してくる。すべては伝えられないものを伝えようとする努力。それが、芸術なのではないか。力みを一切捨てている所がすごい。日本のアニメのレベルは間違いなく世界一級だということを示している。団地ともおをアメリカ人が理解するように成るかである。確か格闘系のアニメとしてはドラゴンボール等々、日本の作品は世界で評価が高いが、その次は、まさに日本的な川柳系、脱力系、アニメの凄さが伝わるかどうか。お風呂屋さんはすばらしい。