隠された拉致

   

山桜が咲いている。 中盤全紙 インドの水彩紙 山桜の美しさは、格別である。静かにひっそりと咲いているのに、秘めた華やかさがある。

そろそろ北朝鮮から拉致被害者の調査結果が伝えられるだろう。それが簡単なことではないことが今から予想される。北朝鮮は世界中から、拉致を続けたいた。金沢にいた70年代に、何度も北朝鮮に連れて行かれると具体的な注意を受けた。北朝鮮のスパイに捕まって、連れて行かれるという具体的な話である。能登半島では良く言われていた。ハングル文字のボートが置き去りにされたり、隠されていることが良くあったのだ。上陸した北朝鮮の密入国者が、山に逃げたから注意をしてください。などという防災無線を聞いたことさえある。よくぶらぶらと歩いていたから、危ないから止した方がいいと、警官から本気で注意されたことさえあった。当時、石川県では何となくそういう話は一般的に言われていたことだった。その後、フランスに行った。ヨーロッパ中を絵を見て歩き回った。ほとんどの国の美術館に行ったのではないかと思う。おもヒッチハイクで歩いた。このときも出会う旅行者に良く言われた。誘拐されるという話だ。誘拐されて連れて行かれた人の話を、具体的に聞かされたこともあった。今に成ってみればイタリアで絵の勉強をしていたルーマニア人が、北朝鮮に拉致されたのは事実だった。

当時同じような話は、良く聞いた。連合赤軍がヨーロッパを逃げ回っていたこともあった時代だから、日本人というだけで、下宿もさせてもらえなかった。北朝鮮に連れて行かれたという話が、生々しく流れていた。仕事があるなどとだまされてはいけないと成っていた。いまさら思うことだが、何故、日本政府はそういうことに手を打てなかったと思う。金大中氏が日本から、韓国に連れ去られたときは、警察は現場にいて手が出せなかったということが言われた。日本海側まで車で移動するときも、警察の車が後ろを付いて行ったのだが、何もできなくて悔しい思いをしたということだ。日本にいた韓国人が、韓国のスパイによって、誘拐されているの状況を、日本の政府が傍観せざる得ない事情とは何か。日本政府は、北朝鮮が日本人を誘拐しているのを、当時から把握していた、としか私には思えないのだ。この拉致の事実を日本政府が認めるにはずいぶんの時間がかかった。何故、握りつぶしていたのか。

体験的に、具体的な経験として、情報など持たない学生である私が、石川県でも、ヨーロッパでも、拉致を身近に感じて行動していた。明確には分らないが、疑わしい接触すらあった。本当に日本の警察がそのことを把握できていなかったとは思えないのだ。夕方海岸へ行くのは危ないと、石川県では言われていた。ヨーロッパでは、仕事を紹介すると言われたら、誘拐話だと言われていた。亡くなった入佐さんという神戸出身の人から、具体的な誘拐事件の事実を教えられた。今に成ってみれば、本当のことだったのだ。私などいかにも危うい存在に見えたに違いない。しかし、怖い秘密のこととして、他の人には伝えないという前提で話してくれた。北朝鮮のスパイが周辺にいると恐れていたと思われる。日本政府スがパイを把握できていなかったなど考えられない。当時から、拉致を把握していたにもかかわらず、何かの理由があって公表されなかったとするのが、自然な気がする。

日本人を日本から誘拐した北朝鮮は犯罪国家である。日本の主権が侵されている現実に対して、何故手をこまねいていたかの理由。何か裏がある。公表することで日本が不利益になることが、あったと思われる。この日本政府の責任というものは、いつかは問われるべきことだろう。今は確かに誘拐された人達が、帰ってくるということが第一である。同時期に不思議なことは、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還運動である。表向きは、貧しい日本でひどい目にあっている同胞の帰還。食糧不足の国が、何故そのような馬鹿げた政策を行ったのだろう。拉致といい、在日の帰還といい、何か北朝鮮は理解しがたい。帰還したり、拉致された人が、無意味に北朝鮮で暮らしている。有効な活動をしていた人は、返してもらえないということか。韓国政府は、北朝鮮の拉致に真剣ではない。その理由が分れば、日本政府の当時の姿勢も分るのだろうか。

 - Peace Cafe