号泣県議
妙高山麓 10号 妙高に行くといつも天候が荒れる。この日も霧が来て濡れた。しかし、わずかな時間見えた妙高の山肌は、神々しいような神秘性があった。
さすがにここまで来たのかという、号泣県議の不思議さである。なぜこれほどへんてこりんな議員が選挙で当選するのかが問題である。選挙というものが、代表を選ぶという機能をしていないことを意味しているのではないだろうか。議員は有権者の代わりに、政治を担っている。多額の経費がかかっている。もっと慎重に、まともな人を選ぶように成らなければならない。政務調査費のごまかし方が下手すぎる。一日おきに東奔西走の主張をしている訳だが。それが温泉では政務調査と言えない。泣いてごまかすしかなかったのだろう。たぶんこの人の出処進退もうやむやになるだけだろう。県議会というものはそんなものということになる。これでは政治が何をやっているのか、不明の世界になる。市町村議会の場合は身近な問題を取り扱うから、身近なやりとりに興味がわく。国会の方も、憲法の解釈を変えようなど、自分の未来にかかわることをやるから、関心が湧いてくる。しかし、県議会はどんな政治をしているのだろうか。地方議会の政務調査費は、他でも相当おかしなことがありそうだ。
都議会では塩村文夏議員に対して自民党都議が下品なセクハラ野次を飛ばした。しかし、曖昧なまま終息しそうである。国会でも同様の事件があったことが出てきた。これも自民党議員だ。何という醜態であろうか。議員というものの体質のおかしさが噴出してきている。こうした下劣な本性が議会という公の場で出てくる。まるで風呂屋のサウナの中の会話と変わりがない。公共の場で言いたい放題の下劣な人間がいくらでもいる。これが、日本人の女性蔑視の実態と思える。議会がひどければ、独裁の方がまだいいとなりかねない。確かに議会の議論というのは、退屈する。野次でも飛ばしていなければ、眠ってしまうのだろう。議会が一問一答でなく、まともな議論の場になっていない。議員の演説と、行政の演説が、勝手に述べられるだけである。あの議論を聞いていろと言われても、退屈に違いないと思う。本当の議論が出来るような議会を作ればいいのだが、それでは行政が嫌なのだ。
今は議会というものは形式を踏む場所と化している。だから議員は陣笠であり、数だけのことになる。号泣議員は泣きながら議員の役割は、政務調査費より重大なのだと叫んでいたようだ。こんな不思議な人が主張する重大な議員の役割とはいったい何を意味しているのだろう。目立てるということとか、権力者になるということとか、自己満足するとかいうことなのか。県民の視線で考えたら、こんな人に高い報酬を払っていることが情けないだろう。議員になって、本当にいい仕事をしている人というのはむしろ少数派なのではないか。良い仕事とは、行政の進むべき方角を示すことだろう。行政の怠慢、行政の間違いを指摘することも重要なことだ。こうした地道なチェックをしてゆき、得意分野の専門的な研究調査を行って、未来の地域構想を提案する。議員の役割とはそういうことだろう。良い仕事をしている人が、有権者に見える仕組みを作ることだ。辞職させることも重要だが、それより、議会改革を行うことだ。
いつも書くことだが、業務日誌を書かせ、公表することだ。政務調査費と照合すれば、すぐ実態が見えてくる。号泣の野々村議員のブログを読むと分る。さすがにすごい人だ。そういうことが分る。これを読んだ上で、投票したければすればいい。この人が何をしたいのかは私にはまったく読み取れない。こういうレベルの人が議員になっている事例は、いくらでもある。その実態を知るためには、日々何をしているのかを、有権者は知る権利がある。今の時代極めて安い費用で、そういうことが実現できる。何を考え、何をやっているのかが、見えるようにしなければ、議員のレベルは上がらない。議員のレベルが低いことを願っているのは、行政である。そして個々の議員の実態をつかんでいるのも行政である。号泣議員が今になってでたらめであることが出てきたのでは遅い。行政はもっと早く気付いていたはずだ。行政には気付きながら放置していた罪がある。