グローバリズムの終焉

   

山北の斜面 10号 東名高速で切り立ってしまった、崖のような畑だ。もとみかん畑だったのだろう。今は畑なのかどうか、元畑という位の加減だ。

「グローバリズムの終焉」農文協 関 曠野 藤沢雄一郎 著 署名に惹かれた。グローバリズムが終わることは確かである。その過程とその理由というものが知りたかった。このことを考えるといつも、悲観的な思いに駆られる。悲観しながら、その終焉の理由を確認しておこうというのだから、少々辛い作業になる。もし、書名が地域主義の復権というようなものであれば、また違う読み方はできるのかもしれない。藤沢さんという人は、まさにその地域主義の人らしい。地域で生まれ育ち、地域で農業を志している人だ。そして都会から地方に就農する人たちを手助けしているらしい。らしし、らしいと書くのは具体的には何をしているのかまではここでは分らないからだ。田中康夫知事時代に、新規就農里親制度というのが出来たらしい。何と驚いたことに、私はこういう制度がどうしても必要だと、20年前から主張して実現できなかったことだ。政治というものの善悪は恐ろしいものだ。その結果安曇野では新規就農者がかなりあるらしい。

田中康夫氏は農業に縁もない人間であるが、大事なことは理解していたようだ。もしかしたら藤沢さんの助言もあったのかもしれない。長野では田中時代が終わっても、この制度は継続され、都会からの移住の農業者が結構増えているらしい。こういう現象は全国で散見されることである。地方の集落が消滅しかかっていると言っても、案外に元気な地方もない訳ではない。他所者に来てほしくないという、心理があるのでは活力が失われる。元気のある地方の理由はよく研究する必要がある。つまりそういうことは、グローバリズムが終わった後のことなのだ。今は、関さんがどのような理由で、グローバリズムが終わるのかの理由を書かれているかである。情報の整理という形のようだ。私の関心のある江戸時代をエネルギーのエントロピーという観点で分析している。江戸幕府は平和な国づくりに、停滞こそ重要と考えていた。現状維持が何より大切にされた。祖先に見守られ、子孫に残す水土の技術。

惣村のことが取り上げられている。歴史というものが、権力者の歴史に終始して、政権の水ばかりに目を奪われるが、その背景にある、人間の暮らしていた社会の変化に着目することは、極めて重要なことだ。私は民俗学からのアプローチに関心があるが、ここでは経済の仕組みという観点が取られている。ヒットラーは村長に成れない。人間の暮らしの規模の問題の重要性。江戸時代の幕藩体制に置いての、藩の自立性と、幕府の統治。なかなか面白い指摘が続いている。それにしても難しい。難解という訳ではないが、分ったという気にはなれなかった。私の基礎知識が不足しているのだろう。情報が極めて豊富である。多岐多様な情報をグローバリズムの崩壊という一っ点に集約して行く。相当に頭の構造が、複雑化していなければ、こういう構想は立てられないだろう。

前書きは、「農とは特定の労働のことではない。農的活動を通して世界における人間の地位を理解しようとする心身一体の作業ーーー「野の文化」agri-culureなのである。」と結ばれている。この観点で、資本主義というグローバリズムを読み解くことは、誰にとっても重要なはずだ。心身一体ということは、少し頭脳で理解するとは違うということだろう。頭だけで理解する人には、グローバリズムの勝利だけが構想されるのだろう。ヒットラーのように。安倍氏のように。私達が目指すところは、人間が幸せに暮らすということにある、食べ物を作るという当たり前の行為の持つ意味なのだろう。この本を読みこなした訳ではないが、ここには様々な観点がちりばめられている。江戸時代の惣村とグローバリズムの比較論を、ニチニチ農作業を通して、考えてみるということは極めて重要な、軟着陸法ではないか。

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