植民地とは何か。
朝鮮が日本の植民地があったという歴史的事実を否定する人が、存在する。このことになると、必ず、日本は列強の植民地主義に対抗するため、やむえず朝鮮を併合したのであり、日本に植民地はなかったというような意見が繰り返し出てくる。しかも、それは右翼的な人の意見のようだ。どうもそういう組織が存在するようだ。そういう人がいる以上わたしも繰り返し書くつもりだ。昔は右翼的な人こそ、自慢げに植民地であったことを誇ったものだ。日本の明治時代に存在した帝国主義も認めないのだろうか。確かに明治政府に植民地主義的野心が強くあった訳ではない。しかし、世界には明確な植民地主義というものがある。大英帝国のように、他所の国土を植民地化して、綿のプランテーション農業や、鉱山開発をする。領土を世界に広げ日の沈まない強大な国家になるという発想である。帝国主義の産物が植民地である。自国の権益の為に、奴隷貿易まで行う。人権意識も希薄な時代、国家の独立の尊厳に対する意識も薄かった。そうした考え方の尻尾が、日本に置いてもいまだに見え隠れする。日本を愛するということを、他国を卑しむことにつなげる人がいる。
明治時代には移民ということが始まる。日本人は多数、アメリカや中南米に移民した。移民といっても、出稼ぎ的な意識が強かった。日本帝国主義の政策としては、移民には棄民的要素があった。食料と人口のバランスである。江戸時代も新田開発は、各藩が熱心である。閉じた鎖国社会であっても、人口の増加は起こる。江戸時代の社会インフラの整備は、鎖国以前の銀輸出の資金で始まる。江戸時代後半には、経済運営に行き詰まる藩が多い。人口が江戸時代初期の倍になる。農業技術の革新や、新田開発が出来る範囲で、人口の増加が起こる。そして、欧米の列強の帝国主義が、日本にまで及ぶのが幕末である。植民地化を免れる意識が、日本を近代国家へと鎖国を解くことになる。幕府から明治政府に代わり、富国強兵で列強に対抗する。産業革命を日本も取り入れることに躍起になる。人口も爆発するように増加する。軍備費の増加もあり、農村の疲弊は江戸時代以上の状態に陥る。出稼ぎ的移民政策が始まる。
山梨県境川でのことだが。移民した弟家族がブラジルで成功して、家族にすごいお土産をもたらしたという家があった。同時に満洲から引き揚げてきて苦労している家族もあった。貧しい山村であるので、農地を相続できるのは長男だけである。それ以外の人は、出てゆく以外生きるすべがなかった。八ヶ岳開拓事業に参加した家族が、墓参りに向昌院に来て、向こうでどれほど大変かということを言われていたのを覚えている。ともかく人口が常にあり余っていた。東京に出る人も、ブラジルに行く人もいた。松下幸之助氏が国土開発隊というものをつくり、20歳になったら義務化すると言う夢を新年の新聞に書いていた。国土を広げるということは絶対善であったのだ。当然干拓事業も熱心に続けられる。その失敗事例が、有明海の干拓事業である。明治時代の国土拡張主義の一つが、植民地主義を芽生えさせた。耕作放棄地どころか、農地が不足していたのだ。国内の矛盾の解決を海外に求めざるえない国内事情が存在した。
盛んに移民政策が行われると同時に、日本の権益を東アジアに広げてゆく発想が生まれる。「俺も行くから君も行け、狭い日本にゃ住み飽きた。 波の彼方にゃ支那がある。」満蒙開拓である。こういう言葉が少年雑誌にまで掲載される。アジアの解放という美名の植民地政策である。それは、大東亜共栄圏という欧米諸国の植民地支配からアジアを解放し、大日本帝国を盟主とする共存共栄の、新たな国際秩序を建設しようという、発想に至ることになる。列強からの解放ということが、強調されれたとしても、日本が盟主としてというところに、本音がある。アジア諸国に対して遅れた植民地化された地域という意識があった。いち早く欧米化し、独立を守った日本が救済しなければ、アジアは欧米に支配されるという意識である。アジア諸国の中にある反植民地勢力と、結びつきながら、日本の進出が計られた。確かにこの側面から見ると、欧米の植民地主義とは異なる。しかし、根底には日本の人口増加に対応した拡張主義が存在する。少し長くなってしまったので、又。