減反見直し
長年問題とされながら、継続されてきた減反政策がいよいよなくなりそうだ。減反政策は日本の農政の無策を表してきた。作らなければお金がもらえるというような考え方は、異常である。こんなことが解決につながるはずがない。この背景にあったものが、補助金農政であり、農協を中心とする、農業旧勢力の存在である。と言って減反さえ止めれば農業が良くなるということではない。減反を止めるのは当然として、今後の農業を国家戦略の中でどのように位置づけるかである。政府は企業参入と、農地バンク。農村所得の倍増。を課題としてあげているが、農業政策の整合性が収まるとは思えない。最近私が想像する稲作分野の将来は、巨大な企業的稲作会社が現れて、10社によって日本の米を生産する姿である。政府はその巨大稲作会社の設立が上手く進むように、動いて行くのではないか。今より生産性が上がり、国際競争力とまでは行かないが、50%くらいの関税で収まることになる。一方に、相変わらずの兼業農家は採算とは関係なく稲作を続けてゆくが、10年後にはそれも老齢化が進み、消えてゆく。これが日本の稲作の将来像ではないか。
日本の食糧自給の為に必要な水田農地は、おおよそ今の半分位で良い。だから、食料自給のことだけを考えるならば、耕作放棄地は稲作では問題にならない。鶏卵業では、20年くらい前に卵の生産は8社+αーで占められているといわれていた。その後も中小の零細の養鶏会社は徐々に淘汰されてきたはずである。政府の考えでは、お米も企業的農家によって、大半が生産されるということを期待しているのだろう。その方が効率もいいし、政府も生産調整や価格操作など話が付きやすいと考えている。そのためにもJAの抱えている農家はいらない物になりつつある。今回も、JAによって強烈なTPP反対運動があった。私もその一人として参加したのだが、反対の声は今や埋もれてしまっている。JAの反対の背景が、農家の所得補償や、減反補償を背景にしたものだから、国民一般の共感が得られにくい気がした。減反補償とか、戸別補償を受けながら、自由化反対を主張すると、既得権にしがみついているようにしか映らない。
もう一つの流れがある。どれほど生産性が低いとしても、価格と関係なく農業を続ける農家のことである。これも生き残るはずである。理由は簡単である。稲作なら、兼業農家で可能だからだ。お米は買った方が安いくらい農家の人は誰でも知っている。それでも総合的に考えれば、自分の暮らし全体の整合性から、田んぼは続けたいという気持ちがある。私が絵を描きたいという気持ちに近い。人間が生きるということは経済だけでなく、価値観は多様なのだ。田んぼがそれだけ興味深いし、日本人の原点のようなものを秘めている気がする。田んぼが好きな人が居る。田んぼを本気でやることによって、安心して暮らせることになる。感受性は豊かになる。物を見る目は深まる。田んぼをやりながら生きるということは、生きるということの魅力が倍増してくる。そういうことを知ってしまうと、何とかなるなら、田んぼだけは続けようということになる。農村というものがある間は、兼業農家は生き続けるだろう。
考え方の大きな分岐点は地方農村の消滅の是非である。山間地から集落が消えてゆくことになる。大規模化できない地域から農村が消えてゆく。僻地の集落が成り立たなくなることは、日本という国の成り立ちとして、問題が生じないか。私には都市住民しか人の居ない国、そんな日本は想像もできない。日本人を捨てるに等しいと考える。日本人で無くなってまで、国際競争に奔走すべきとは思えない。日本人であるという原点はどんな時代に向うにしても、育ててゆく必要がある。その大切なものが、山間地の稲作に存在する。山本七平氏の言うところの、日本教の信仰の核心のようなものだ。稲作は日本教の行だったのではないか。本来稲作には向かない、東北地方の棚田で神田を作るという行為は、信仰そのものではないか。