集団的自衛権の拡大解釈
安倍政権は集団的自衛権について、国連憲章にある自衛権を持ち出して、日本国憲法の拡大解釈を行おうとしている。日本国憲法には、憲法9条があり、自衛隊自体がかなりの拡大解釈と言わざる得ないものだ。国が、憲法という統治の方法を定めた、根本理念を拡大解釈を続けることは在っては成らないことだ。軍事力の行使を「積極的平和主義」などというきれいな言葉を持ち出してごまかそうとしている。日本の方角を定めた憲法の平和主義は、敗戦による反省に基づくものである。軍事力によっては、平和な社会を作れないという理念が込められている。この憲法はアメリカに押しつけられたものだから、改憲すべきという考えを安倍政権は主張している。しかし、新憲法が制定されるという時は、常に前政権が革命や、敗戦によって覆され、消滅した時だ。敗戦という状況下で、新憲法が制定され、そこにはアメリカの意志が働いたことは確かなことではあるが、二度と戦争を行っては成らないという、人類の平和への希求の結果と考えるべきものだ。
日本が直接的戦闘に巻き込まれず、ここまで平和に来れた一番の原因が、この憲法9条があったおかげである。集団的自衛権の拡大解釈論の出現は、安倍政権成立以来、悪化している中国、韓国との歴史解釈や、領土問題との関係がある。同盟国アメリカの外交の影響力の衰退による、失敗が続いているということもある。安倍政権が軍事力による平和以外、信じていないということもある。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とする憲法の理念とはほど遠い現実認識である。確かに、中国政府が公正で在るとは思えない。信義に基づく様でもない。しかし、ここでは中国の中にある、善良な国民に期待しているのである。どこの国にも、正義と公正を求める人間は存在する。そうした善良な部分を信頼し合い、育ててゆくことが、世界平和への道であると考えているのだ。
日本が武力主義になるということは、中国にも潜在する、平和主義を追い詰めることになる。互いの平和勢力を、成長させる以外日本の理想とする世界平和はないだろう。せめて日本だけでも、世界の平和への理想を掲げよう。これが憲法9条を掲げてきた日本人の誇りである。日本国憲法前文では「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない。」とも述べている。日本の権利だけを言いたてるのであれば、平和外交などあり得ない。積極的な平和というものが、武力の均衡によってのみあるとするならば、限りない軍拡の道にまた戻るということになる。それでは、明治政府の求めた、富国強兵の帝国主義の失敗をもう一度たどることになる。日本が、敗戦によって掲げることになった日本国憲法の理念は、世界の平和を願う人々の、希望なのだ。
憲法の拡大解釈をどうしてもしたいのであれば、むしろ9条の改定を議論すべきだ。9条がおかしいと安倍氏は主張してきた。その問題点を正面から議論することの方が、はるかに健全である。9条の考え方、その解釈に国民の賛否が2分していることは、日本の現実である。だからこそ、日本という国の行き先が定まらないのである。定まらないということが、日本の国力の停滞の一番の原因である。96条の改定とか、集団的自衛権の拡大解釈とか、周辺部の解釈論とか、あまりに政府自民党のやり方が姑息である。姑息であるということは、実は裏があるということで、尖閣や、竹島の領土問題で、隣国との軋轢を増して、憲法改定を行おうという勢力があるのだ。こういうやり方は、いかにも冒険主義的で日本平和のために安心が出来ないということになる。もし、平静な議論を踏まえて一定の軍備を持つということが、日本の大勢を占める国論であるなら、憲法9条の改定もやむえないこととなる。その前段として、国民全体でわかりやすい議論を行うことだろう。