田んぼの違い
田んぼが一枚一枚違うものだと言う事を痛感する。それは、放射能の測定を通して、田んぼには水や風からの影響というものが、深くかかわっているという事に、改めて気付かされたことである。同じ小田原でも、土壌への放射能汚染は場所によって100倍も違った。このことは放射能以外のあらゆる事象が、その場所の持つ特性となって表れていると想像される。田んぼの場所は動く訳ではない。地球の歴史に従い、土壌が出来地殻変動があり、日本列島が定まり、たぶん何億年の時間が土壌を作り出した。そのゆるがない場所の土壌である。日当たりも何万年も同じである。田んぼになってからの、何百年の年月はさらなる重いものである。舟原や欠ノ上のような、久野川沿いの棚田は、江戸時代の初期に開かれ400年は経過したようだ。川沿いの斜面に石積みをしながら、削り、客土して、作り上げられた。宝永の噴火の際にはかなりの火山灰をかぶったはずだ。関東大震災の際に一度大きく崩れたようだ。近年、道路が舗装化されるに伴い、田んぼへの客土があったと思われる所がある。
山からの水の違いの影響も大きな変化がある。箱根山麓の明星岳、明神岳の山の状態の総合的生産力というものが、どのように変化して来たのかも、田んぼへは大きく影響をしている。昭和初期までは相模湾が豊かな漁場であったと言うから、山は照葉樹と落葉樹で豊かに覆われていたはずである。江戸時代から、炭、薪の生産地として大切にされていた山である。箱根から丹沢に、豊かな山があるということは、巨大な堆肥場が上流にあるようなものだ。その絞り水が田んぼに流れ込んでいた。もし、山が昔のままであれば、田んぼというものが永遠の循環の中にあるかのような構想が立てられる。山は戦後植林で針葉樹に変わる。山の堆肥場としての生産性が落ちる。相模湾の行状としての生産力が落ちる。同時に田んぼは化学肥料が入るようになる。そこで、水と土壌で作る田んぼの循環は切れる。この全体の循環を再生するのが本来である。田んぼをやっていると、先祖からの長い暮らしの継続を考えてしまう。私一代で出来ることなど限られている。
本来山が豊かでであれば、山から大量の腐植が田んぼに流れ込んでいたはずである。山の絞り水はカルシウム、マグネシウムなどのミネラルが多く含まれている。これを上手く利用したのが、江戸時代の稲作である。これは空から風に乗って運ばれたものもあったという事だ。現代の田んぼにはミネラル不足の問題がある。ミネラルは土壌に結合して動きにくい。落ち葉の持つミネラルが、水とともに流れ込む代替が無くてはならない。緑肥は育てた方がいい。冬にクローバーやレンゲや菜の花を育てることは望ましい。しかしこれがなかなか上手く行くものではない。条件によっては稲よりも育てにくい。種が高価であるので、毎年買う訳にはいかない。本来であれば、景観植物として行政の補助があっても良い部分である。堆肥を入れるのが現実的である。稲藁は田んぼで堆肥にして、もどす。さらに、養鶏場の床を冬の間に入れる。
当面はいまある田んぼそのもので見る以外にない。田んぼは5年ほどで、自分の耕作法の結果が表れて来る。田んぼを始めて、1年目に悪い田んぼというものはまずない。放棄されていたような田んぼであれば、尚更土はいい。慣行農法で行われていた所でも、草は出ないし、肥料が残っているのかまずできる。これが3年目ぐらいから、できなくなる。そして5年目くらいに底が来る。手を打たないで自称自然農法を続けて行けば、寂しい田んぼになる。最初は何もしなくてもよく出来るものだから、展望を楽観して、土壌を育てることを怠る。耕作をするということによって、土壌を消耗しているという事に気付かなければならない。肥料分という事ではなく、腐植というものに焦点を合わせる必要がある。耕作すれば腐植は減少する。腐植を増やすためには、緑肥を育てるか、堆肥を入れる必要がある。