農業の本質
農業離れは世界各国で起きていることである。資本主義的な競争社会の中では素朴な農業に魅力が湧かないという事がある。都会に出て、一旗あげたいと言う誘惑の方が勝つ。暮らせるなら、肉体を使う一次産業に付きたくないということが、人間共通の傾向のようだ。単調な肉体労働で、身体を動かしたくないということは、生き物としての人間に、共通なことかもしれない。農業の経済的な困難さとは別に、肉体労働を避けたいと言うのは、人類の本能的なものだろう。そもそも道徳というものは、本能の制限のようなものだ。勤勉は美徳とされているが、人間ぐうたらに、暮らしていたいと言うのも本当のところだろう。ぶらぶらしていたら野垂れ死にになると思うから、やむなく働く。こういう側面は当然ある。私は勤勉ではないが、それなりに面白がって農業をやってきた。
肉体労働を嫌う人間の性向を考えたうえで、農業をどのように位置づけるかを考えないと、農業従事者は居なくなる。釣りでは、釣るという事を目的にしたスポーツのようなものがある。捕った魚を逃がすのである。生産という観点から見れば、実にバカバカしいことで、私のようなものには到底出来ないことである。金魚すくいでもすくった金魚をもらうためでなく、数を競う遊びがスポーツのようにある。パソコンゲーム等おおよそそんなものだ。遊びということを否定するわけではないが、お米を作るだけが目的で、採れた野菜を土に戻すというような事を遊びとしてやる時代も来るのだろうか。例えば、インターネットを使った農業というものが行われている。インターネットに自分の畑の様子が映る。作業者にその日その日の農作業の指示を出すのだ。エチオピアのアビシニア高原でモカコーヒーを生産する。これは指示する者にはゲームであり、耕作する者には金儲けである。
プランテーション農業とはこうしたものなのだろう。自らが労働するのではなく、指示をして、生産する。奴隷ではないとしても、金銭による支配。農業への企業参入というものが可能性として言われる。又、そうした給与をくれて農業をするなら、やってもいいという若者もいると言われている。本当なのだろうか。居たとしてもそれは極めて少数であり、継続性のない現象と考えた方がいい。実際私が見聞きする範囲では、勤め人としての農業労働者を生き方としている若者を知らない。居てもアルバイト気分のように見えるし、長続きはしない。結局日本の若者が雇用出来ないから、また、労働に耐えられないから、外国人を雇用したりしているのが実態ではないだろうか。やはりやりたいから農業労働に従事すると言うより、仕方なくという事にも見える。いずれにしても、労働力を必要とする農業を日本で考えることは、今後ますます困難になる。
しかし、私には農業ほど面白いものもない。この大きな開きはなんだろう。私が変わっていると言うだけではない。人間が生きると言う面白さが、農業には満ちている。しかし、この面白さに目をつぶらざる得ないのが、業としての農業である。良く農家の人に言われるのは、自然農法も良いけど、それじゃあー暮らしてゆけないだろう。確かにその通りだ。自然農法は面白いのは分かるが、そんなことをしていたんじゃ間尺に合わない。絵を描くのは面白い。面白いけど食べてはいけない。経済競争という事がすべてをつまらなくしている。そう言うものから離れたとたんに、農業の持つ本当の面白さが見えてくるはずである。この事を生かさない限り、農業をやる人は減り続けるだろう。しかし、農業が一日1時間程度で済むなら良い運動である。生産物を自分で食べる農業なら、負担が無くこれほど面白いことは無い。やはり、人類の将来は、地場・旬・自給ではないか。