福島の農業者
福島の農業者の痛みが分からない人間と、指摘された。確かに福島の農業者にしてみたら、日本中のすべての人に対して、こう言いたい所かもしれない。小田原の久野で、地場・旬・自給で暮らしている。放射能で汚染され、お茶が出荷停止になった、被害者の一人という意識はある。お茶だけでなく、すべての農産物が少なからず影響を受けた。横浜、鎌倉の教育委員会では、小田原の冷凍みかんの使用を停止した。このように放射能がわずかでもあれば、食べるべきでない。こう主張する人も少なくない。そうした経過の中で、仲間の幾人かは小田原を離れて行った。小田原に残り農業を続けるとしても、常に負い目を感じての生産になっている。福島原発から200キロ離れているだけに、複雑な立場に置かれた。喜んで「食べてもらいたい」と言えない農産物を生産する悲しみは計りしれない。
福島の生産者の痛みは、分かっているつもりは、おこがましいことだろう。回復も不可能なほど、土壌を放射能で汚された農業者の悲しみは、私達とは比較できないほど深いものだろう。そのことで将来を絶望し、自殺した福島の有機農業者もいた。おまえは何も分かっていない。そう言われればその通りである。あなたの事を分かる、などと言う態度が不愉快なものだ。何が出来るのか。何をしてきたのか。そうした具体的なことだけが意味を持つ。福島の人が希望したならば絵を差し上げることにした。そのようにこのブログに書いた。今まで3人の人に差し上げた。今からでも希望される方がいれば差し上げたい。もちろん私の絵などさしたる意味も持たないだろう。しかし、私という人間が出来ることのすべてではないかとも考えた上でのことだ。絵をそう言うものとして描いて来たのだから、そうすることにした。痛みを分かち合うということは、難しい課題だ。震災瓦礫は、結局受け入れる所が少ない。
李少晩ラインで漁場を一方的に取り上げられた島根の漁師の場合は、農地を汚染された農業者とは少し違う。李少晩ラインは全く不当なことだ。何故、50年間放置してきたのか。この背景は、戦後のアメリカの極東の戦略があったのないのか。韓国の強引な手法を、日本に認めさせたのはアメリカの圧力に違いない。当時は朝鮮戦争後の緊迫した関係がある。また、日本の植民地政策の挫折。朝鮮人差別。戦争での敗戦。様々な負い目もあったのだろう。日本の状況も敗戦後の混乱の中、拿捕されても、殺されても、その不当を我慢させられた訳だ。その時も国際司法裁判所への提訴は、無視された。自民党政権はこの問題に積極的に結論を出すべきであった。何故、50年放置に近い現状であったか。既得権が成立していないかという判断がある。それでも、魚場を取り上げられた漁師の立場と、福島の故郷を失った人では、意味が違う。
朝鮮人には、国家を奪われ植民地化された深い悲しみが根底にある。福島の農民は住む土地を奪われ、農地を汚された。比較するものではないが、朝鮮人には国を奪われたという、むごさがある。私の程度でも、何にも要らないから、元の土を返してくれと言いたい。土壌は時間をかけて作り上げるものだ。多くの福島の農家は、ご先祖から土壌を育ててきたのではないか。このかけがえのないものを、汚されて我慢はできない。小田原でも農の会の人はまだいい。無理だと思えば、小田原を離れることが出来る。おれたち農家は農地を担いで逃げることは出来ないと言われた。全くその通りだ。福島の農民の悲しみを自分のものにするとは、原発の廃絶の活動をどこまで出来るかにかかっている。原発の廃絶の活動には加わっていたが、廃絶を実現できなかった責任がある。何としても原発の廃絶は実現しなければならない。島根の漁民の痛み、朝鮮人の痛み。未来志向で問題解決に当たるはずであった。