放射能汚染の食品のリスク
放射能のリスクはとても分かりにくい。はっきりしていることは、「子供はリスクが高いこと。」「体内被曝と外部被曝では全く違う。」「距離が離れていても、油断は出来ない。」そして自分で最終的な判断する以外ないこと。政府の発表は矛盾している場合が多々ある。お米が500ベクレル汚染される場合と、お茶が500ベクレル汚染される場合は、人体への影響は異なる。お茶は煎じてどれだけ溶け出すのかが問題。お米でも玄米と精米では相当に違うはずだ。不安と言うものは目を曇らせる。どうしてもリスクの原理主義に陥りやすくなる。農薬のリスクを2つに考えるグループがある。有機農業の人たちと、慣行農法の人たち。あくまで考え方であり、農薬への不安の大きさと受け止め方の問題だろう。有機農業を行うものの中でも、有機JAS基準を守ればよしと言う考えの人もいれば、農地にに一切のものを持ち込まないという考えの人もいる。食の安全は思想の問題と言っても良いのだろう。
農の会の人の中でも、今年は耕作をしない。作っても食べることは出来ない。この考えも見事であるし、正しい考え方である。一切のものを持ち込まないでやろうとしてきた農地作りが、福島の原発事故で、無にされたのだ。これほどつらい悲しいことはない。福島にはそうした生き方を求めて、新しい村づくりともいえる活動が点在していた。テレビが作り出したダッシュ村とはちがって、人生そのものをダッシュ村づくりの中で生きてきた人たちがいた。先日小田原を訪ねてくれた橋本宙八さんご家族もその一人だと思う。今度来てくれることになった。漠原人村のマサイさん。それはそれは福島の阿武隈山系は美しいところだった。高い山がある訳ではなく、なだらかで奥深い山が延々と連なっている。そこに暮らしを求めて入っていた人たちがいた。そこに、今回の原発事故が起こり、遠く小田原にまで高濃度の死の灰が飛んできた。因縁というものを感じる。
ここに導かれたというような気持ちに成る。人間に生き方を変えろという警告が出ている。どこからと言われると、完全なる無神論者だから、地球からとでも言えば良いのだろうか。その役割がおまえにもあると言われている気がする。当然出来ることなど何もないのだから、段ボールコンポストをかき回している位であるが。食の安全であった。放射能hはどこからと言って線引は出来ない。自然界の放射能であっても、人体のリスクの一つなのだ。すべての物質はリスクがあると考えた方がバランスがとれる。良いものも、悪いものもない。加減良く取り入れて、ほどほどのところで死んでゆくのが生き物である。母がセロリばかり食べるようになったことがある。主食と言えるレベルである。病気がそうさせたのか、そんなことをしたから病気になったかは分からないが、ともかく身体を壊した。
農薬も良いとか、放射能も良いとかいうことではない。完全に排除しようとすれば、生きる場所は無い。安全についての政府の引くラインは当てにならない。政府の発表するデーターも信頼性が低い。政府は事を小さく見せようとしているに過ぎない。農産物でも、小田原と言う範囲にでも地域によって全く異なる。福島から飛んできたものだ。NO2の測定活動をやってよく分かっている。17日にホウレンソウと生梅が測定に出されたそうだが、どこの畑のものかが問題である。今や自分の畑は自分で調べない限り、安心と言うことにはならない。その上で、どこまでを安全とするかは、自己判断である。これは自給する自分の問題である。農の会に置いて販売する農産物は、あくまで自給の延長である。私の卵は、私の引く安全のラインの農産物である。生きるという意味では、やはり食は自給ではなかろうか。