佐藤政権の核武装

   

今年のノーベル平和賞は中国の獄中の人物である。その対極で思い出したのが、佐藤栄作氏である。ノーベル平和賞だけは、ノーベルの生まれたスェーデンではなく、対立しがちだったノルウェーが授与するものだ。2000年代はアメリカ人の政治家の受賞者が目立って多い。受賞者は政治的な意図を含んだ決定と見たほうがいい。佐藤栄作氏の場合、再検証する必要がたぶんにある。佐藤栄作氏が平和主義者とは、想像を絶していた。佐藤氏の考えは、日本国憲法の平和の理念を、良く言えば現実化。悪く言えば空洞化した人だ。その人がその平和憲法の理念と、非核3原則というニセ看板でノーベル平和賞をもらった。真実は、日本を核武装しようとした人である。西ドイツとの間で、日本の核保有についての協力要請の論議をしていた、というのである。佐藤栄作氏のノーベル平和賞とは何だろう。今回の劉暁波氏のノーベル賞も、様々に不自然である。

ダライラマ氏も、アウンサンスーチー氏、の二人ももらっている。もらったおかげで今命があるのかもしれない。その意味では、劉暁波氏も似たような意味だろうか。天安門事件は中国人には忘れたい、今も大きな傷となっている事件である。思想弾圧事件である事は間違いが無い。その時は劉暁波氏の名前は知らなかった。王丹 、ウーアルカイシ 、柴玲というような学生指導者の名前は記憶にある。国外退去的処分だった、ことで印象に残っている。先日、ウーアルカイシの名前が、日本の中国大使館前で抗議をして、捕まったというようなことで出ていた。台湾に居たはずだが、本当だろうか。どうしているのだろうかと思った。劉暁波氏は外国に居たのに、天安門事件の際に中国に戻り、学生と一緒に活動する。その後民主化運動で4回の投獄を繰り返している。あえて中国国内で頑張っている人らしい。。

劉暁波氏のノーベル賞をほめたたえることは簡単なことであるが。ここにはどうしても、進んだ白人社会が、遅れた黄色人種を善導しようというような、臭さを感じてしまう。これは偏見と言ってもいいのかもしれないが、私の中にはそういうものが巣食っている。アジアにはアジアのやり方がある。中東には中東のやり方がある。世界の警察が来て取り締まれるものではない。東アジアのことはあまり口を出さないでもらいたいというような、微妙なものを感じた。やるなら、佐藤栄作氏のノーベル賞剥奪からだろう。ベトナム戦争を思い出してもらいたい。アメリカと一緒になって、日本はどのような役割を担ったのか。その間総理大臣だった人だ。核武装論者で、どうしたら日本も核武装できるかを本気で考えていた人だ。DV疑惑も繰り返し言われている。佐藤氏が平和賞をもらうための裏工作がすごかったという話も聞く。

佐藤政権当時、国民は騙されていた。かなりの意味で承知で騙されていたともいえる。核持ち込みがあるぐらいは、当然と大抵の人は考えていた。核武装まで模索していたというのは、あらゆる道を模索する、待ちの佐藤としては、それらしいと言える。これほど日本的な政治家はいない。その時のご都合でどうとでも動いた。高度成長期の波への乗リ方が、上手だったというに過ぎない人だ。アメリカの都合という意味では実に巧みに、いいなりであった。ベトナム戦争協力と交換のような、沖縄の返還の実現。日本国民がノーベル平和賞をもらうべきだろう。憲法9条を見捨てないできた。しぶとく維持している。この点がアジア的であり、日本らしい。劉暁波氏のかかわったという、08憲章では軍備について「軍隊の国家化を実現する。軍人は憲法に忠誠を誓い、国家に忠誠を誓わなければならない。」これがノーベル平和賞受賞者の言である。

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