68回水彩連盟展
4月に新国立美術館で水彩連盟展が開催される。私が始めてこの団体展を見たのはまだ旧東京都美術館で開かれていた頃で、一風変わった展覧会だった。まさかそこに出すことになるとは思わなかったが、今は止めてしまった、端名さんと言う一水会の人が、金沢大学の先輩だった。その方から大学の先生だった、二紀会の林建造先生を紹介された。このように、連盟だけに他の会での活動を中心にされている人が、集まってい出来ていると思った。水彩連盟展だけの会員と言う人もいると言うのは、後でわかった。小史を見てみると、私が出品をしたのは39回展と言う事のようだ。この年から、長沢節さんが、辞めたというか、辞めさせられたことで判る。私としてはキッシュアート部門という、不思議なおもしろさに魅かれて出品してみたので、騙されたような気分になった。その頃はあちこちの団体に、挑戦のような感じで出していた。その頃は、団体展と言うものに、少し権威のようなものが残っていた。
水彩連盟展に出してみると、当然権威のようなものは無く、とても親しみやすい所だった。若い出品者が居ると、わざわざ声を掛けてくれるような人が居た。何となく、癒しの場のようになった。当時は殺伐と絵の競争世界で、取っ掛かりを探そうとモガイテイタ。もちろん関わりが深くなってくると、この小さな世界の中もなかなか、ややこしい人間関係が存在するようで、今はそういうところとは距離を置いて、純粋に出品させてもらうだけの立場である。何かに関わっていれば、とうに長沢先生と同じことだっただろう。運営をしてくれている人達に、いい気なものだと言う意見があるのは知っている。ただ、民主的でない組織と言うのには、耐え難いのだ。
今年の出品作はM150号である。ほぼ描き終えた所である。早春の何も無い畑を描いた。この絵を描いていて、自分の絵を描く役割りの様なものがあるかもしれないと思った。大それたことではなく、「川越の小江戸情緒を描く作家」と言うような芸術とは無縁の役割だ。もちろんそんな紙芝居のようなことを、芸術と混同している場合があるのは、知ってはいる。イラストのような、と表現して、イラストをやる人に差別用語だ、と言われるような意味なのだが、畑の美しさについては、私以上に知る人は、幾らでも居るだろうが、それを描くと成ると、役割かなと思ったと言う事だ。河童を描いて知られる、小川芋銭という絵かきは、本当は農業に暮らし、農業に生きる人を描いた。農に生きる人と心通じ合える人だった。そんな意味で、今時代の中で農に生きる姿を、畑の美しさとして描いてみる。
畑はとても美しいものだ。自分が耕してみて、風景を作り出す意味がすこしわかってきた。なぜ耕作放棄地が美しいのか。よく耕作された畑が、少しも自然と破調にならないことも知った。そして、人工造林がなぜ味気ない風景に成るのか、なぜ里山が美しいのか。人間と自然の関わり方にあるのだと思う。ここでの美しいは、美味しいと同じで、何の客観性もない。美しいと芸術も直接の関係はない。私はそんな風に絵画というものを考えてきた。その末にと言うか、ある意味諦めてと言うのか、畑を描いて見ようかと、おそるおそる思った。それは猫好きがネコちゃんを描くのとにている。せめて百姓芋銭の目で、今の荒れ果てようとする農業の現場を、正面から、絵を描く目で見て見る事も必要なことかと考えるようになった。