すごい資料が出てきた。

   

前に話は聞いていたのだが、昨日まごのりさんから、昭和13年(1938年)3月の久野の経済基本調査書と言う、すごい物のコピーを戴いた。昭和初期の久野の実態調査がなされているものだ。昭和初年の経済恐慌を受けて、農村の疲弊がその後進んでゆく。そうした時代背景の中で作られたものなのであろうか。今こういうものが出てきたことは、里地里山条例に地域指定されたことと、なぜか呼応している。これを昭和13年に作り上げた人達の、地域の人達の思いが、ずっしりと伝わってくる。70年前の久野の様子が手に取るように分かる。例えば以前から舟原という表記と、船原という表記が、別々にされている。どちらが本当だろうかと不安があった。この資料によると、舟ヶ原とあり、又船ヶ原とされている。そうした呼び名もあったと言う事なのだろうか。この資料を作ったところは、足柄下郡足柄村久野経済更正会というところだ。第一部が経済基本調査書。第二部が経済更正計画となっている。

1931年には東北の農村を中心に飢餓状態に陥る。1938年に作られていると言う事は、農村の経済が相当に困窮していた時期だろう。前年には日中戦争が始まっている。国家総動員法が発令され、軍事態勢に入る年だ。当時の農村がどのような実態であったかを知る事は、極めて重要なことである。90歳を過ぎた、史談会の湯川さんに、この資料を充分に読みこなした上で、聞き取りをする必要がある。1、足柄村久野全図残念なことに資料が紛失とある。2、沿革3、地勢および位置この中に記載のある、「四つ尾嶺の山中にある総世寺旧地が名高い、文禄元年諏訪の原に移された。」は和留沢付近を意味しているのだろうか。景勝地として、①坪間②布袋洞③疣石の3箇所が上げられている。

そして最も知りたかった、当時の農業の実態が詳しく資料化されている。地主、地主兼自作、自作、自作兼小作、小作、と分かれている。まだ分析は出来ていないが、田んぼが890反畑が2080反山林原野が3205反宅地が72350反と成っている。舟原の分別戸数で言えば、地主0、地主兼自作3、自作7、自作兼小作28、小作6、計44戸と成っている。今が75戸だ。私の来たときは66戸目だといわれたので、このところ急速に増えたことがわかる。しかし、本村総戸数が1921年に451戸人口3226人、1931年に486戸3346人に増えている。一家族数は7,15から6,88に減少。たぶん今は2、0台であろう。戸別の耕作面積では、田んぼでは2反4畝畑で4反2畝と成っている。林野で言えば、用材、薪炭林、孟宗、真竹と分別されている。

舟原には水稲が、96反8畝。陸稲が40反2畝。大麦が50反9畝。小麦が89反。甘藷が44反1畝。里芋が11反7畝。大根が9反6畝。南瓜が4反5畝。蜜柑が14反3畝。361反と成る。2毛作も含めてであろうが、36ヘクタールの耕作地があったことになる。中でも田んぼが9,6haあったことは水利の関係が見えてくる。現在は3ヘクタール程度であろう。水利と言えば水車が組合所有が14基。個人所有が11基と成っている。舟原に5基在ったとは聞いていたが、こうして実数が見えてくると、水力利用の姿の想像も実像が見え始める。久野全体の田んぼ面積が100ヘクタール。まだ分析は出来ないが、この資料がこれからの久野を考える上で、どれほど貴重な物であるかはわかる。日本人がどのように暮していたのかの実像が、徐々に結べるような気がする。

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