第86 回 水彩画 日曜展示
第86 回 水彩画 日曜展示

535「水源地」
2021.11

536「コップに入れた花」
2021.11

537「カトレアとリンコステリス」
2021.11

538「透明な海」
2021.11

539「岩礁」
2021.11

540「岬の眺め」
2021.11

541「加部島」
2021.11

542「海に続く道」
2021.11

543「端午の節句」
2021.11

544「和布刈山」
2021.11
小田原に行く前に描いた絵だ。絵が溜まってしまい来週もそういうことになる。どうも一日一枚どころでなく絵を描いている。絵が描ける内はどんどん描こうと思っている。描けなくなれば、たちまち描けなくなるものだ。
最近なるほどと思ったことがある。中川一政や梅原龍三郎の汚い線の描き方についてである。汚いけど素晴らしい線のことだ。あの大雑把でうまくもない線には深い意味がある。ああで無ければならなかった必然の線の意味にやっと気付いた。
ちょっと似ていて、否成る線が、須田克太や松田正平である。もちろんこの二人も素晴らしい画家なのだが。巧みさが見えてしまうのだ。その人の癖のような線の匂いがしてしまう。あたりまえのことだがそれが絵を絵にしている。この巧みさが絵の精神をいくらか小さなものにしている。もちろんうまく見せようなどと言う低俗な絵でもない線とは違うのだが。
中川も梅原も、少しも巧みに見せない努力をしている。だからこそ精神の崇高だけを表わす事ができている。やっとそう言うことが分かった。下手なのに、心底すごい絵を描くと言うことは一番難しいことだろう。うまさに依存しないで描く絵というのは、純粋に行き着くことだけを描こうとしていることになる。