未来が見えない時代

   



 稲刈りが終わり、藁を戻して水を入れた田んぼ。
 若い人は10年後の自分、20年後の自分を思い描いて、今を努力する。と言うようなことがワタミの方が言われていたような記憶がある。企業は入社試験の際にこの会社での10年後の自分がどのように働いているかを訊かれるらしい。
 若い人には厳しい時代になったと思う。こんな世界にしてしまった人間の端の方の一人として申し訳なかったと思う。10年後の日本を想像できる人が居るのだろうか。20年ごと成ると間違いなく誰にも分からないとしか言えないのだと思う。それくらい時代の変化が激しすぎる。
 目は近視で老眼で緑内障である。眼鏡をかけて生活している。眼鏡をかけていると、今掛けている眼鏡が壊れたときのために、予備の眼鏡を用意する。若い頃は一つあれば心配などしたことがなかったのだが、今は眼鏡が五つある。小田原の方にも二つある。半分壊れている眼鏡でも臨時のために残してある。

 歳をとって心配性になったのかも知れない。一方で昔よりもずいぶん我慢強くなっている。例えば暑いとか寒いと余り思わない。昔は暑くて耐えられない感じがあったのだが、今は余り暑いとも思わない。だから熱中症の危険も年寄の方が高いのだろう。

 社会の変化がすごい勢いで起きている。もうついて行くどころではない。10年先の社会のことがよく見えない。20年先の社会が分かるという人がいたら、それは未来が見えない人の妄想と言うことになる。20年前の社会から現在までの変化も大きかったが想像の範囲ではあった。

 ところがこの先の20年がどうなるかは、科学技術の変化の速度が数倍にもなるだろう。誰しも未来が分からないのだから、若い人であれば、未来の自分のために何を準備しておけば良いのかが分からない。もう未来の機嫌は見えてきた年齢だから、この点では良かったのかも知れない。

 余りに変化の大きい社会は、若い人には大変困る社会だ。子供は未来の準備に生きている。大人になって生活をしてゆくために、学校行って勉強をして学んでいるのが普通だ。大抵の勉強は未来に役立つされている。ところがこの先は怪しいものである。数学が将来役立たないと言って腹を立てるどころではない。算数という考え方だって役立つかどうかよく分からない。

 子供の仕事は好きなことを探すことだ。どうせこの先どうなるかなど、学校の先生にも分からないのだから、好きなことを見付けて、今それに向けて本気になった方が間違いがない。ロシアの侵略戦争を見ると、突然石垣島に向けて原爆を打つことだって無いとは言えない。あまりの不確定性の時代。

 それくらい独裁政治という物は危うい。誰もプーチンの間違いの修正が効かない。誰だって間違うことがある。政府だって日本ではよく間違う。しかし、間違っているよと指摘する人がいる。ひどい間違いをすれば、さすがに次の選挙で落選する可能性はある。

 しかし、プーチンも習近平も金正恩もその点がちがう。どんな間違いをしたところで、間違ったまま実行されてしまう。そして引き返すことが出来ない。これが独裁政治の最も悪いところだ。ところが経済競争に置いては、たまに間違うにしても独裁政治の方が有利なようだ。それが独裁国家の経済成長が目立つ理由だろう。

 経済には間違いはつきもので、予測が外れても機敏な対応をする方が競争に勝つ。対応が早いのは独裁政治の方だろう。その結果遠からず、中国がアメリカを追い抜くだろう。10年後の世界に何が起きても不思議がないから、そういう予測をすること自体が無意味なのかも知れない。

 経済競争には国家資本主義が有利なのだ。中国を見るとそう思わざる得ない。10年後の日本が中国に競べれば、経済規模も軍隊の能力も競争どころではなくなっている可能性が高い。もちろん独裁者の未来など何が起こっても不思議はない。未来が見えないのは、日本より中国の方かもしれないが。

 自由主義陣営と呼ばれる国々は一応民主主義を標榜している。民主主義はこの混沌とした先の読めない社会で、重要なことが決められなくなっている。日本では経済政策が無いまま、膨大な借金で政府は運営されている。財政再建は計画すら立たない。

 温暖化対策、環境対策など、どんな政治体制の国であれ、協力して進めなければ効果がない。ところが、日本を筆頭にして、大半の国で対策が進んでいるとは言えない。日本では温暖化対策のために耐用年数を超えた原発の再起動である。環境ファッショから国の自由はなくなるのかも知れない。

 日本のように大地震や大噴火が起こる不安定な場所では、いかにも原子力発電は間違ったエネルギー政策になる。日本で又原発事故があれば、世界中が迷惑をする。日本こそ、循環型エネルギーに取り組むべき国のはずだった。ところがそのチャンスを民主主義社会は逃した。原発事故の対応では独裁国家なら違ったのかも知れない。

 こんな状況で若い人は不安なことだと思う。どういう職業につくというようなことは考えにくいだろう。20年後どんな会社が生き残っているのかなど、誰にも分からない。就職など考えて、学校で勉強するというようなことは馬鹿げているのかもしれない。予想も出来ないものが役立つ時代になるのかも知れない。

 技術を身につければ何とかなるだろうと考えて、大工さんとかお医者さんとかなら、安定していられるかと言えば、まったく分からない。大工さんやお医者さんさえ居ない社会なのかも知れない。機械の方が上手に家を作るかも。機械のお医者さんの方が正しい医療をしてくれるかもしれない。

 分かっていることもある。その時でも人間は美味しい食事を食べたいと考えているだろうということだ。先のことが不確定になればなるほど、食料を生産する技術は重要度が増すのではないか。明日の食料があると言うことは安心である。

 この先世界の状況は良くない。その状況の悪い中でも、自分らしく生きるためには食料の確保は生きるために重要になる。しかも、自給の農業技術である。いつ化石燃料がなくなるか分からない。何時化学肥料がなくなるか分からない。

 結局の所、今に生きるほかない。今を全力で生きる。今が未来のためにあるのではなく、今の自分のためにある。それは若い人も年寄でも同じではないだろうか。今一番楽しいと思うことを、精一杯やることだろう。それが意味があるか、無意味であるか。そんなことは誰にも分からない。

 身体を使うことだ。身体が身につけた物は失うことはまず無い。身体とは遠くなる技術ばかりが進んで行くのだが、身体が資本だ。少しでも身体が長持ちするように暮らしてゆき、もう少し絵の先行きを突き詰めたいものだ。

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