プーチンに操作された自由

   


 
 睡蓮ティナ三つめの花である。

 表現の不自由展が東京国立市でも開催された。美術館における表現の自由の問題は、忘れてはないらない重要なことだ。こういうことに鈍感になると、ロシアのようなことが起こる。何が本当の自由なのか、いつも問い直して行く必要がある。

 ロシアの人達は自分たちが洗脳されているとも、情報が操作されているとも考えていないようだ。一定の自由の中で暮らしていると意識している。ところが、その自由が操作された自由だったのだ。普通に暮らしている国民が、自らの意志で、独裁者を作り出してしまう結果になる。

 愛知トリエンナーレリコール事件がある。名古屋市長が美容整形外科医院長といっしょに、美術展に公費を支出した愛知県知事が間違っているとして、リコール運動を起し、それが維新の関係者によって、ねつ造された署名だった悪辣な事件だ。あの不思議極まりない事件があったにもかかわらず、名古屋市長は再選された。

 日本の民主主義は客観性のある選挙によって支えられているとは言えなくなっている。すでに操作された自由が始まっている。公正とは何か。自由とは何かが問われている。一人一人の人間の深化が無い限り、民主主義は腐敗する。

 今の日本にある自由を考えてみなければならない。操作された自由としなければならない側面がある。NHKの報道を考えてみると分かる。NHKは公正に報道をしているつもりだろう。しかし、NHKという眼鏡をかけた公正さである。どんな報道も見る側の自立が無ければ、客観性というものは生まれない。

 NHKには政府が様々な形で影響を与えている。特に政府に人事権があると言うことは、条件付きの自由である。総務大臣がNHKから接待を受けたことがある。総務大臣が政府に関する報道に発言をしたこともある。反政府的発言をした人が移動させられることは良くある。

 民主主義は成熟した住民がいてこそ成立するものだ。あれほどおかしな動きをした名古屋市長が、市長として再選される背景をどう考えれば良いのかと思う。維新のように大阪の医療体制を崩壊させた政党が、選挙では支持を広げている。こうした、まともとは言えないような選択が選挙結果になっている。

 この現象をどう考えれば良いのだろうか。民主主義の転換期が来ていると思うほか無い。たぶん、支持者は当然のことだと考え、私が歪んでいると思えるのだろう。確かに正しい選挙結果だ。しかし、この正しさの裏側にある社会を動かし始めているものは、いつかプーチンを生むような怖いものに見えてくる。

 それはプーチンが選挙によって選ばれ、あの残虐な侵略戦争を行っている。にもかかわらず、国民から支持されつづけている恐ろしさである。この理解しがたい状況の背景には、操作された自由がある。自由だと思い込まされた怖さだ。

 ロシアに報道管制があるとしても、ロシアの国民にまともな想像力があれば、ウクライナの真実を想像は出来る。大多数のものには起きたことはわかってはいるのはずだ。にもかかわらずプーチンを支持した方が良いと考えている危機的状況。

 アメリカではトランプが大統領に選ばれた。どこかおかしなトランプが未だにアメリカ国民の半分から評価されている。何しろ、大統領自らが、大統領選挙を不正選挙だ、と叫んで国会になだれ込めとアジ演説をしたような人だ。敗北を認めない民主主義否定の張本人である。大統領が不正を証明できない不正などあり得ないだろう。

 日本、ロシア、アメリカ、たぶん世界中で何か異様な普通の人達の傾向に、自由という自覚のゆがみが始まっている。日本に報道の自由が無いわけではない。誰もが名古屋市長の行った事を知っている。維新の会の人間が、不正リコールの張本人であったことも知っている。

 それでも選挙で評価される結果が出ている。間違ったことをしたら選挙で厳しい結果が出るわけでは無くなっている。しかも、橋下氏という元維新の代表が、テレビコメンターとして選挙に大きな影響を与えている。その偉そうな発言は極めてトランプ的である。危険な兆候というしかない。こういうやからの待望論さえ出ている。日本にも危険な兆候が見えている。

 中国でも習近平体制が、絶対権力化してきている。しかもそれは中国の大多数の国民の自由な意志によって作られた独裁者である。中国人は情報に対して敏感であるし、有能な人達だ。中国の報道の自由を否定する人も居るが、中国が大国になることを恐れる人達の偏見と考えた方が良い。

 世界中で起きているゆがみは、報道の制限とか、真実を知らされていないからだとは言えない状況である。承知の上で、独裁政権の方が競争に有利だと中国人自身が選択しているように見える。またそうした結果になっているのではないか。その社会的な意味に向かい合うべきだ。

 自由が無いから、報道が制限されているから、独裁的指導者が現われた。こう考えられるのであれば簡単なのだが、そうではない。自由な判断で、一定レベルの情報が得られるようになっていて、独裁政治を選択する傾向が生まれてきている。世界が危機の時代に入ったと言うことかもしれない。

 競争主義が限界を超えたと言うことが背景にあると考えていい。強いもの、競争に勝ったものがすべての果実を得るという正義が問題の根底にある。能力が高いのだから、能力のないものを支配する権利があると言うことを、能力のないもの自身が認めている社会が近づいて来ている。奴隷の自由だ。

 ロシアも、中国も、アメリカも、世界中で一部の富裕層に富が集中している。その方が競争に有利と言う結果である。資本が資本を産み、富が富裕層により集まる。日本では大企業に富が集中し、貧困層が急速に増加してきているが、その貧困は自己責任とされて切り捨てられているのが、社会の本音となっている。

 何が操作されているのかと言えば、情報では無い。情報が自由に流れたとしても、それを理解する能力の人間の傾向が操作されている。麻生副大臣が主張したように、ヒットラーは選挙で選ばれると言うことだろう。人間は衰退の危機に陥ると、強いものにすがろうとする本能的なものかも知れない。人間の理性が問われている。

 強いものを選べば、競争に勝ってくれるかも知れないと期待してしまう。その強いものが、自分の生活もいくらか引き上げてくれるという依存心が芽生えている。そんなことは無い。政府は自助を主張し弱者を切り捨てる。切り捨てられる現実を見ながらも、すがりつく住民という構図。

 政府とは別に、自分の生き方を考えた方が良い。日本をどうすると考えるよりも、自分の暮らし、自分の周りの暮らし。自分の暮らしの基盤を確立するほか無い。やはり、食べ物を自給すると言うことがまず重要になる。そうすれば、独裁に依存するような間違えをしないで済む。自由は生活から生まれる。

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