画家根津壮一先生

三軒茶屋小学校の美術の先生が、根津壮一先生である。根津先生が小学校の時に私の絵を評価してくれたことも、絵を描くことが好きになった理由の一つだったことは間違いがない。この先生は教師としては問題があったとは思うが、画家としては、なかなか筋の通った良い絵描きだったと思っている。
光風会展や日展で絵は何度も見せて頂いた。とても柔らかい家庭風景を描いた絵が印象に残っている。控えめな見えを切らない絵だと思った。なぜこんなに穏やかな絵を描く人が、あれほど厳しく、激しい小学校教師をしていたのかと想像もできなかった。
小学校卒業以来特に交流はなかったのだが、渋谷洋画人体研究所で久しぶりに顔を合わせた。先生から声をかけて頂いた。小学生の私をよく覚えておられたかと驚いた。それからは毎週お会いして、画家としての先生の姿を見せてもらえることになった。
帰りに喫茶店によって、先生の素晴らしいデッサンを見せて頂くのが楽しみだった。私のデッサンも見てもらった。デッサンは好きだったし、ずいぶん描いて居たので、それとなく自信はあったのだが、根津先生の方が正直なところ上だった。いいデッサンを描かれる画家だった。
先生の描く絵は実に穏やかなものだった。優しいまなざしのデッサンである。しかし、人間根津壮一は激しい、苦渋に満ちた人だったと思っていた。先生が小学生の私の絵を評価してくれた一つの理由は、私の叔父が芸大の教師であることを知っていたからだと思う。大した絵を私が描いて居たとも思えない。
それで展覧会に出品してくれて、賞をいただいたことが何回かあった。全く絵に自信もないし、何を描いているのかという自覚はなかったので、何故賞なのという感じであったので、得意にはならなかった。それでもなにかと絵を描くようになっていった。
好きなことを探せという口癖の父だったから、それなりに評価されている絵が、好きなことのだと思い込むようになったのだろう。好きというのであればベーゴマとか、鶏の方が好きだったと思う。しかし、それでは親が喜ばないということは分かっていた。
根津先生の最初の授業は、今でもよく覚えている。5年生の一学期である。日展で受賞されたすごい先生であるということと、すぐお怒りだす恐ろしい先生だということは、学校中で評判だった。何が始まるのかと、がちがちに緊張していた。
まず紙に筆で、水をかけて濡らした。びしょびしょに濡らした。その紙を机に置くとくるくると丸まった。この通り紙というものは濡れれば、丸々ものだというのだ。だからどうとは説明がない。ただこれから紙にみんなは絵を描くのだが、濡れれば丸々ものであるということを覚えておきなさい。
こういう始まりだったのだ。丸まるから、画鋲で止めて描けというような意味ではないらしかった。どうも紙という物に絵を描くのであるということの意味を、分からなければならない。絵は絵空事だというような意味だったかもしれない。
小学生にはかなり難しい話だが、子供向きの話はしないという覚悟のようなものを感じた。画家として生徒に語ろうとしていた。眼光が鋭く。常に怒りが感じられた。ピリピリしているのだ。よほど苦悩を抱えているということは心心に感じられた。
それから様々な絵を描く授業が始まった。そのころルオー展があり見に行った。ルオーを見て以来厚く塗りたくて仕方がなかったのだが、水彩絵の具ではそれほどの厚塗りはできなかった。しかし、ずーと厚塗りを続けていたのだが、水彩画を習っていたという人が転校してきた。これで厚塗り派は一気に人気がなくなった。
次の週の授業は校外での写生だったのだが、家の屋根と庭を描いた。さっそく薄い水彩画風の風景を描いてみた。ところが、確かにそれなりにきれいな絵にはなったのだが、なんとも面白くなく自分向きではないと思い一回でやめた。
その絵の上手だった人は新宿で画廊をされていると同窓会で教えてもらったので、いろいろのつてで、探したのだが見つからなかった。今は名前も忘れた。あったところでどうしようもなかったのだが、それほどその薄塗りの水彩画が忘れ難かったのでそことを伝えたかったのだ。
根津壮一先生とは渋谷人体洋画研究所がなくなるまで、お付き合いが続いたが、研究所がなくなり、それっきりになってしまった。しかし、そのころ光風会に絵があるということは知っていたので、絵は見せて頂いていた。優しい家庭風景だった。
なぜあれほど、荒々しい人からこんなにやさしい絵が出てくるのかが、いつも不思議に思えた。荒々しさは晩年も変わらなかった。ある時、山梨県立美術館の収蔵作品を調べていた。大叔父に当たる桑原福保さんが境川村の出身で小学校に絵があった。今でもあるのだろうか。
山梨の出身の絵かきで、日展作家でもあった桑原福保さんの絵が山梨県立博物館にあると聞いたのだ。県立博物館にピカソの絵があれば、おじさんがピカソからもらったものだ。この母のおじさんは母のことをとてもかわいがってくれた人だった。
桑原おじさんのところを子供のころ訪ねた。甲府城址のそばで画塾をされていて、子供たちに絵を教えていた。たくさんの子供がいた。と言っても私はもっと小さかったのだが。母がたぶん私のことをおじさんに見せに行ったのだと思う。とても暖かく接してもらえたことが忘れられない。
人柄がともかく素晴らしい人で、私にも優しくしてくれたのだが、軍に徴兵されていた時に、広島の原爆後の片付けなどの処理をして、二次被ばくをして55歳の時がんでに亡くなった。戦後すぐに生まれた子供は、死産だったのだが、それは真っ黒な赤ちゃんだったという話を聞いている。
その桑原おじさんのことを調べていたのだ。すると根津壮一という名前が偶然あった。根津荘一韓国1916ー1993とあった。どういう意味化もすぐには分からなかったが。韓国人と考えていいのだろう。そいう話は聞いたこともなかったのだが。そうだったのかという思いはある。
在日韓国人としての日本の戦後の生活に、苦しんでいたのではないかと思う。少額教師時代の厳しい様子の意味が分かった。その暮らしのいらだちのようなものが、教師としての荒々しい態度になっていたのではないか。まだ戦後10年。根津先生も教師をしながら教室も開かれていた。
まだあの優しい絵の意味は私には今も理解できていない。ごく普通の家庭風景なのだが良い絵だった。光風会の絵も日展の絵も全体にあまり好きではないのだが、根津壮一先生の絵はいいと思った。先生の手がごつごつで、どれほど絵を描いて居るのかと思うほど油絵の具がしみていた。それだけは印象に残っている。