維新の会が従軍慰安婦像に、過激に反応している理由。
維新の党は大阪市長、大阪府知事、そして辞めた橋下氏を含め今回の従軍慰安婦少女像と天皇の写真を燃やす映像展示に過敏に反応している。維新の会の体質をよく表していると思うので、その言い方と、理由を考えてみたい。
「橋下発言」津田氏や実行委員の先祖の肖像を焼き、その先祖を間抜けな日本人と侮辱する作品も展示する。そして表現の自由の限界ラインを来場者に考えてもらう。激しい批判を覚悟しながら。
「吉村大阪市長」少女像などの展示について「反日プロパガンダ」「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」と述べ、公共イベントでの展示は問題だとの認識を示した。また、大村氏が展示内容を容認したとして、「愛知県議会がこのまま知事として認めるのかなと思う。知事として不適格じゃないか」
「松井大阪市長」も口汚い言葉で記者会見で表現の不自由展を止めろと批判している。電話で河村名古屋市長にどうなっているんだ。こんなものは止めさせなければならないと言ったという。
維新の会の発想は実にネット的である。客観性の無い論理に酔っている。雪だるま式に批判した言葉を膨らませている。その言葉に自ら興奮してさらに言わないでいい言葉まで、口に出してしまっている。
その理由は行き過ぎた発言の方が選挙に有利だからである。最近の日本の有権者の動きを見ると、煽るような反韓国や反中国が票になるのだ。韓国の文大統領も経済の不調で支持率を下げてきた。反日政策を展開し始めてから、支持率が持ち直し始めている。これだから互いに対立を深めたくなる。
N国という妙な政党ができたが、これなどはNHKをぶっ壊すと言うような訳の分からないことだけを主張して、視聴料を払いたくないと考えている人たちの票を集めたのだ。公共放送のあり方のようなものは触れようとせず、スクランブル化すれば、払わないで済むというような票になりそうな部分だけに特化している。
維新の党は、さすがにアベ政権でも言いにくいようなネトウヨ的な票になる過激な言葉を、連発する。それが、今回の従軍慰安婦像の排除発言になっているのだろう。ヨーロッパの極右勢力のポピュラリズムを彷彿とさせるものだ。意図しての行動と考えた方が良い。
維新の会はネトウヨ体質なのだ。そして多くの場合、税金云々を論理の根拠にする。世間がお金のことを持ち出せば、理由抜きに指示するという考え方である。ここでもN国とも同じである。有権者の欲望に響かせようと言うことだ。
お金のことが票になる。文化とか、芸術でも、特に展示禁止になるような作品はお金に縁の無いものだ。芸術が何であるかを超えて、お金にならないものはいらないものとしか思えない時代のだ。それだけ世知辛い競争主義。追い込まれた時代なのかもしれない。
理念とか理想というものは本質的にはない。だから、税金に特化している河村名古屋市長にも似たような体質がある。芸術などどうせ余裕のある人のお遊びだ程度に考えている。せいぜい値上がりする作品はどれかという興味であり、芸術の意味には関心が無い。
税金のことを言えば、多くの人が黙るカードだと考えている。実は税金のことを持ち出すことで、問題の本質の議論から外してしまうのである。ここで重要なことは表現の自由と、芸術作品の問題である。
反日本プロパガンダ的な作品は、公共の場での展示を禁止しても良いか。と言うことを問題にすればいいだけのことである。天皇の写真を燃やすような映像を展示して良いかどうかなのだ。反日の象徴として作られた、従軍慰安婦少女像を展示して良いのかどうかである。
美術館の内部でその展示目的を示してあれば、展示は許可されて良い。芸術はあらゆる様相を示す可能性がある。たとえ反日作品であるとしても、展示自体を遮る理由は無い。それは公的美術館であればなおさらのことだ。
日本国批判の政治的な作品であるから、展示を禁止する事を許せば、権力批判の作品は作れなくなる。芸術的衝動に制限を加えることはできない。ただし、公共の美術館において、見たくないものを見ない権利もある。そうした配慮をした上で展示すればいいだけのことだ。
維新の会は最近出てきた、ポピュリズム政党と考えればいい。思想があるわけでは無い。大衆の動きに便乗して、受けそうなことを言う。極右組織としての様相を見せたり、税金党の様相を見せたりする。
丸山議員のような人も含み込む。今回の従軍慰安婦少女像、天皇写真を燃やす映像、こういうものに大多数の日本人は嫌がる。この点を突いているのだ。芸術作品の展示問題を、政治問題にすり替えているのだ。
維新の党は、N国への支持が強いのを見て、あるいは参議院選挙の結果を踏まえ、政党支持を広げる方向を確認できたのだろう。まともな政党らしさを取り外すときと考えたのだろう。選挙に有利であれば、何でもありになった。