修学院離宮の見学

   

修学院離宮の入り口にある絵図。ほととんどが田んぼである。一番上に溜池があり、住宅や倉庫や作業小屋に当たる家がある。下の方の2つの家はあとからのものだという。

自分がやってきた稲作のことを考える上で、修学院離宮を見たいと思った。暮らしの理想郷が修学院離宮だったと思うのだ。美しい瑞穂の国のを具体化したものである。循環型の自給農園である。山北で30年前に開墾から始めて試みたたものだ。修学院離宮は国の姿であるが、一人の自給農園を具体化した。絵を描くための暮らし作りであった。暮らしがない絵など意味がないと思った。何のために描くのかを考えたかった。情報を寄せ集めて描くような絵から、抜け出たかった。自給自足の山寺で育ったという事もあった。檀家も少なく、お布施で暮らすというより、自給自足で生きなければ生きていけない。何かそこには本当の地に足の付いたというような暮らしというものが感じられた。昔の禅寺は、葬式などやらずに自給自足で暮らしたのだ。おじいさんは私に教えた。そのことが私が得度をした動機だった。暮らしから見直す。食べるものを作る所からやってみようと考えるようになった。

一番上の家から、下の方の田んぼが見える。その先にあるのが京都の市内である。緑の筋になっているあたりが、京都御所である。ここから通いの造園をしたはずだ。

山の中で暮らしたいという思いは、長年持ち続けていた。愛読書は現代農業だった。いつか、自給自足で暮らせないものかと夢物語を描いた。いつも思うのは修学院離宮的理想郷であった。何故天皇家が稲作を併せ持つ庭園を作ろうとしたのか。その頃はよくは理解できないでいた。移住先を探した。一番に考えたのは水である。水がなければ暮らせないという事である。山北の移住した場所には不思議な水が通っていた。山北の小学校は小高い丘の上にある。この丘の上に水を上げるために反対側にある高松山の中腹から水を引いたのだ。一度谷底を通して、山の上まで水を上げた。明治時代に作られたらしい。この水が山の上に通っていたので、不思議な場所に小笠原プレシジョンという工場が出来た。小笠原さんが高校の美術部の先輩だったという事で、その水を使わせてもらえる事になった。水は暮らしの基本である。水があれば、田んぼもできる。場所は水から見つかった。

 

土で出来た畔が美しいものだった。修学院離宮は田んぼを作るための家といった方がいい。

引っ越す前に、実際に修学院離宮を見てみることにした。見ないでも十分なくらいに頭の中に姿がある。自分の中ではいつもその構想が広がっていたのだが。やはり見てくると、すごいものだと再確認した。特に水路の作り方がすごい。山からどのように水を集め、ため池にため、緩やかに傾斜する斜面の棚田を潤してゆくか。途中2か所の住居があるが、そこにも池があり、調整池になっている。21号台風では、ずいぶんのありがとうございました。雨風が吹いたはずだ。田んぼに少しの被害もない。どれほどの被害になっているのかと思ったのだが。倒木があったようだが、すでに片付けられている。上野公園では巨木が倒れたままでそのまま置かれてあった。田んぼは写真の通り、稲刈りと、ハザがけがあり、見たい場面を見ることができた。10月10日あたりだろうと予測があたった。イネの出来はほどほどであった。南西の開けた、ゆるい傾斜の扇状地上の田んぼである。古い時代からの田んぼなんであろう。土はかなり粘りのある様子だ。雨で簡単には乾かない田んぼのようだが、倒れるようなぬかるみはない。修学院離宮から続く住宅地はすべて田んぼだったはずだ。そういう田んぼ向きの場所だ。

 

 

右側の大きながけは、ため池の堤なのだと思う。20メートルはある。この上に大きなため池を作り船を浮かべたという。

田んぼを横切るようにある堤が、馬車道と呼ばれる道に明治時代直されたという。明治天皇が行幸する際に、作られ、田んぼの景色をみえないように、道の両側に松が植えられたという。まったく明治時代というものは、天皇の意味を勘違いしている。後水尾天皇にしてみれば、まったく心外であったことだろう。文化で日本を導くという天皇家の意味が全くないがしろにされている。明治帝国主義の欧米かぶれが何か痛ましいほどだ。天皇家は京都に戻り、農のある暮らしをしてもらいたい。それこそが日本の象徴である。

 

 

 

 - 稲作