ギャンブル大国日本でカジノまで始まる。

   

アベ政権の程度のひどさがここに極まった。金儲けの為なら何でもやっちまえとカジノ賭博解禁である。ギャンブルというものは戦後の復興期仕方がなくやったものだと考えていた。世の中落ち着けば、徐々に止めてゆくものだろうと漠然と考えていた。情けないことにこれが甘かった。これが拝金主義アベノミクスなのだろう。倫理というものが存在しないアベ政権。ギャンブルにおぼれる人が増えることをいとわない政治姿勢には恐怖すら感じる。政府というものは国民よりはむしろ倫理的なものだと考えていたが、アベ政権に関しては大違いであった。こんな程度の低い政府を選んでいる国民が悪い。政府に絶望しても、日本人を見限るわけにはいかない。辛いことだ、日本人全体に目を覚ましてもらいたい。簡単なことだ、自民党と公明党に投票しなければ次の総選挙で解決できることだ。政府の全てがだめとは言わないが、アメリカを忖度してカジノを奨励するような政治はどう考えてもまずいだろう。ギャンブルは悪事だ。非公認でありひけめがあって悪事は悪事になる。良くないことだが仕方がないくらいの社会の共通認識が必要だ。日本の民衆の伝統的な暮らしの破壊行為が続いている。カジノ賭博を合法化するなど、政府なのか、暴力団なのか。どこか、狂気と怨念を持って日本文化の崩壊を願っているとしか思えない。

賭博というものは一発逆転にかける、危うい人生の選択肢だろう。普通に暮らすことを真っ向否定するものだ。だから法に反する行為だったのだ。権力者の横暴。地道でない生き方を政府が奨励するようではどうにもならない。小学校の道徳の時間では、賭博も時には必要だという事になるのだろうか。政治家というものは選挙というものを繰り返している内に、勝ち負けにこだわる価値観を持つようになるのだろうか。賭博で逮捕され、そのような発言をしたスポーツ選手がいた。価値観の喪失した時代の中で、お金になれば何でも構わないという価値観が、改めて方角として政府から示されたということになる。こんな国がまともな国の訳がない。日本がこんな国になるとは思いもしなかった。公明党が宗教政党というところにさらに驚く。オウムのような宗教すら政治進出を目論んだのだから、創価学会の現世利益の教義から、賭博で儲けることも教義にかなっているという事になるのか。教団の代表たる池田大作氏の声が全く聞こえないが、代表は交代したのだったか。存在しているのだろうか。ここまで悪くなりながらも、まるで鈍感な宗教という物の怖さである。体制翼賛宗教と成り下がった戦時中の宗教団体を思い出す。

すでに日本には十分すぎるほどキャンブルが溢れている。競輪・競馬・競艇と公営ギャンブルが至る所にある。すでに世界一のギャンブル依存国だ。パチンコを含めれば依存症患者が世界一多いと考えていいだろう。カジノ化しているパチンコで身を亡ぼす人が多いのだ。世界中どこを探しても住宅街や文教地区にまでギャンブル場が混在しているような国はないだろう。カジノで地域経済の活性化などあり得ない。アメリカ資本にあぶく銭を吸い上げられて終わりだ。日本の現状のひどさは、ギャンブルがそれほど悪いことでもないというような意識の定着である。これは日本人の歴史においてはじめてのことにちがいない。その原因は社会の閉塞感にある。日本の衰退の空気にある。もうどうでもいいという破れかぶれの何かを感じる。まともにやってもいても良いことはない、希望のない人生のあきらめである。どうせだめなら、一発逆転という感覚。こうした理念のない世界を生み出しているのが、貧困である。格差である。憂さ晴らしをするしかないという、どうにもならなさ感が蔓延して来ている。

みんなが気付けば、遅いという事はない。若い人と接する限り、性格の良い善良な人が多くなっている。ただこの良い人たちが、良い人だからこそ、アベ政権に騙されているのではなかろうか。良い人というのは、強い独立性がない場合もある。体制に流されやすいのではないのだろうか。あるいは政府の誘導に載せられやすい気がする。現状肯定的になりやすい。私のようなひねくれものはなにくそというのでは、反政府的になりやすいのだろう。良い意味では政府に騙されることも少ない。ヒツジになるよりは、はぐれモノの少数派である。無頼派の方が賭け事におぼれるという事だろうが、どうもヒツジを飼いならすための賭博のような気がする。ヒツジをおとなしくさせておくためには、賭博で発散させておく方がいいという発想である。アベ独裁は実にヒツジの飼い慣らし方にたけている。ローマ帝国でローマ市民の娯楽に、人殺しゲームを見世物にしたようなことに近い気がする。一つの独裁政治の手法なのだろう。あぁー世も末だ。

 

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