民主主義はいつの間にか失われる

   

アベ政権は憲法解釈の変更という形で、立憲主義をないがしろにした。憲法解釈というものは戦後政治の民主主義的な積み重ねによって、徐々に憲法の解釈を固めてきたと言えるものだろう。ところが憲法解釈という民主主義の根幹をなすものを、主権者がかかわることのできない場所で、解釈の変更をしまった。これはまさに民主主義というものの崩壊を意味している。忖度するだろう内閣法制局の人事である。こうした民主主義というものがないがしろにされているという事に、無頓着な有権者が多数派として存在する。つまり、現状の政治状況は民主主義は民衆によってないがしろにされるということなる。この政治的状況が、いわゆるアベソフト独裁政権の誕生である。アベ政権を木偶一座と揶揄してきたが、実はそれを支えているのが、多数派の有権者という事を直視せざる得ない。民主主義は民衆と呼ばれるもののによって支えられ、成立している。ところが、衆偶政治と言えるような状況が世界中で生まれている。マキャベリの予測した通りの現実。

民衆が自ら奴隷としての雇用を望む社会である。自主独立した民衆というものが弱まる社会。自らの尊厳とか、自由というものよりも、明日の暮らしをお上のお情けにすがるという姿である。競争社会の中で、自信を喪失した民衆が、強者に縋りつく構図である。お金の為であれば、人間の尊厳を売り渡していることに気づかない姿。自分の責任というものを回避し、どこかにいるだろう有能なものに自分の暮らしをお願いする形である。これは日本だけのことではない。アメリカも、ヨーロッパも、経済競争というものがこういう国の姿を生み出した。自主独立をしていない人間というものが、自らの足で生きるという自信を喪失した社会という事ではないだろうか。アベ忖度政治という事が言われる。官僚というものが、自らの判断を捨てて安倍政権の希望に添うように動く。官僚がどうせ政治家は変わるのだからと、自分たちが日本を動かすのだというような能力と誇りを持っていた時代は終わっているのだ。時の政府におもねり、優遇されたいという奴隷精神の官僚がはびこる時代になっている。

それは官僚だけではなく、公明党の姿を見ればよく分かる。優遇されそうな方向にだけ動く政党の存在。公明党の中に、民主主義が既に存在していないことは自明のことだろう。現生利益に特化した政党が日本の象徴的現実。民主主義は理想というものがなければ成立しないものであろう。人間がどうあるべきか。その為の社会はどうあれば良いか。こうした理想を求める方角がないがしろにされる社会においては、民主主義は意味をなさない。自由、平等、という理想とする方角が人間の基本的権利であるという自覚があって初めて、民主主義というものは機能する。奴隷中心の社会では民主主義はあり得ない。公明党や忖度官僚がはびこる社会においては、すでに民主主義は失われたと言わざる得ない状況がある。自分の日々が具体的に自由であるという意識無しに、民主主義は生まれないという事なのだろう。能力が上位にあるお上に自分の未来を託すというのでは、民主主義は育たない。自らが未来を作るという意識の集合が民主主義である。

石垣市の中山市長は、自衛隊ミサイル基地の配備は国の専権事項である。ゆえにその是非を市長としては発言しないと、市議会での質問に答えている。これは市長自らが、民主主義を放棄して、国に忖度している姿である。まさに奴隷精神の市長の姿である。自分達の考えを持つべきではないとする市長である。安全保障に関しては国の考えることだから、すべてを従えばいいと我が身を差し出しているのだ。ミサイル基地を必要とするか、不要とするかはそこに暮らしているものが決めることだ。ミサイル基地が出来ることで、危険が増すから、山口や秋田では反対を表明している。ところが石垣に市長はそうしたことは国が決めることで口を出してはならないとしている。この発言がどれほど恥ずかしいものであるかすら自覚がない。判断を放棄して従うだけの奴隷だ。こうして形で民主主義が終わろうとしている。この状況においては、民主主義を大事だと思うものの別枠を作る以外にないのではないだろうかと、最近思っている。

 

 

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