写生画の意味

   

欠ノ上田んぼ2017 中判全紙 ファブリアーノ 

私は写生画を描いている。風景を見ながら描いている。絵を描く人の中には、何も見ないで描く人も居る。抽象画というものはたぶんそういうものなのだろう。頭の中に湧いて来るものを画面に表現してゆくのだろう。その湧いて来る何かが、現実のものから来ている抽象風の絵もある。いずれにしても、制作は自分の観念の作業が中心になる。たぶん、自分というものの内部に何かがあると探っているのだろう。私は写生画である。絵を描くときには自分の観念は出来る限り、表れ出無いようにしている。だから絵を描いているときは、考えないようにしている。考えなければ出ないというものでもないので困るのだが。できる限り見ている風景に反応しているだけの、自分になるようにしている。それは、自分というものは、外界と自分と思っている存在の間にある。そいう関係性にあると考えているからだ。自分をいくら頭の中に探ったところで何も生まれない思っている。これは最近のことかもしれない。

自分が何かを具体的に行う時に、初めて自分というものの在り方が現れてくる。田んぼをやる。誰でも田んぼのやり方を頭の中で考える。しかし、田んぼを行うという実際の行動を抜きに田んぼというものはない。いくら頭の中で田んぼ耕作を考えたところで、田んぼのことは分からない。ゲームソフトの畑というのがあるらしいが、あれで畑が分かると思う人はないだろう。夏の暑い一日雑草を取るという事がある。汗をダラダラ流しながら、田んぼの中で這いずり回り少しづつ田んぼのことが身についてくる。草取りを体験的にわからない人が、除草剤は害があるから使うべきではないなどと言うと腹が立つ。まず草取りをやってみてから、言えるものなら言ってみろと思う。自分ができない正論など聞きたくもない。絵を描くという事はそういう事だと思い始めた。絵を見て、絵というものはこういうものだなどと、理解しても描けるのは絵のようなものである。絵のような外観のものに過ぎない。外観だけでいいと言うのが装飾画なのだろう。上手に、見栄えよく出来上がれば、装飾品としては合格なのだろう。

しかし、芸術としての絵画というのものは、そういう外観的な装飾的要素とはかなりかけ離れたものだと考えている。自分と外界とのかかわりの中で、自分というものの何物かが、画面の上に現れてくる。その立現れる、得も言われぬ不思議と、自分とが通い合うようにしながら画面が作られてゆく。自分というものはそいう、何かとの反応で自己確認ができる。自己存在というものは、外界との反応のようなものなのではないだろうか。見えている外界と自分の反応というかかわり方が、画面の上に表現される。これが絵のような気がする。しかし、この反応というものを支えているものは、自分が学習したものである。田んぼをやるとしても、田んぼそのものから学んだものだ。学ぶという方角にも、自分の何かがある。偶然もあれば、経済的事情もある。運もあるし不運もある。絵を描くという事で学んできたことは、分かってやったことはない。たぶんこんな方向だろうと思いながら手探りで身に着けてしまったことだ。出来れば全てを忘れたいが、実に着いた癖は消せない。少なくともその何かに固執しないで、自然に反応する自分になりたいものだ。多分、そういう事が出来る、自然の一部のような自分になりたいがために絵を描いているのかもしれない。

今の自分の絵は、学習の結果がほとんどである。自分が無意識になれるようになってくることで、より学習結果が表面化してきた。この良かれと思い努力し学習したものが、自分というものに至る障壁になっている。こう描こうというような意思的なものを、抜け出ようとしたことで、自分に至れるどころか、自分の学習した結果が表面化した。これは松波さんに指摘されたことだ。自分などという何かがあると思っていたのは実に奢りだったのだ。自分などない。ないという事になればいいが、学んだ癖のようなものだけが浮かび上がってくる。どうでもいいものが浮き上がってきた。これをどのように取り除き、純粋に反応する自分の眼に至れるか。そうか目も学んでものを見ることができるようになったのだ。こうした諸々のすべてが絵になればそれでいいわけだ。ダメも含めて自分である。良い絵を描こうという想念がいまさらながら自分に立ち至る壁である。

 

 

 

 - 水彩画