絶景の連発

   

最近のテレビでは絶景という言葉が連発される。「故郷の絶景に出会う」と里山番組に副題を付けている。違和感がある。山や海が出てくると、1分に1回は絶景を叫ぶ番組が本当にあった。余りに絶景、絶景と言われるとなんだか絶景が嫌いになって来る。言葉が単純になる原因は発想が類型的だからだ。食べ物紹介番組では、食べ物の味の表現がなかなか多様になっている。たぶん、ワインのソムリエの影響ではないかと思われる。味を言葉化する文化がフランスにあるらしい。もっともらしすぎる感想を述べているので鼻につくのではあるが。食べ物もおいしいだけでは、伝わらないから、言葉の選択がなかなか難しい。昔どっちの料理ショーの取材の時に、アグー豚のとんかつを食べて感想をを言えと言われたのだが、とんかつは久しぶりなのでなかなか上手いといったのだが、やはり使われなかった。これではアグー豚の特徴は出ない。脂身にさっぱりとしたキノコのような味わいがある。とか何とかいうところだろう。美しい景色を見て、絶景と叫ぶ習慣は最近のはやりのことだ。これでは料理の上手いと何ら変わらない。

やはり風景も見て、その場でならではの実感表現を加えてもらいたいものだ。絶景というのはどちらかと言えば、この世のものとも思えない美しさではなかろうか。だから、それは特別な自然景観という事になる。それは私が見たい景色とは全く違う世界のことだからだ。私も、その絶景を狙って絵を描いて居た時期がある。絵を描くことを見失ったときに、ともかく自分が美しいと感じたものを描いて見ようとした。通俗であろうが、ありきたりであろうが、自分の美しいは何かに正直に向かい合ってみようとした。そのうちにその描く場所が写真を撮りに来る人とぶつかることが多いいという事が分かった。いわゆる美しい風景というものなのだ。富士山は美しいと思う。足柄地域で絵を描いて居ると時々出会う訳だが、格別である。しかし、今は絵に描く気にはなかなかなれない。絶景だからである。美しいと絵との関係である。

今、絵に描こうと思う景色とは、自分が暮らしている空気のある景色である。この世そのものである。里地里山を描くという事は、自分が生きている空気を描くという事だろう。富士山を描くとしてもそれが、自分の暮らしの中の富士山でないと絵を描いた気がしない。絵を描くという事で、生きていることを確認しようとしている。そうであればただ美しい景色を描くという訳には行かない。柳田国男の文章を読んで、ただの自然が美しい訳ではない。秋田のスギ林のような人間の手入れが行き届いた山が美林として美しいのだ。と書かれていて、びっくりしたことがあった。子供の頃植林して山が醜くなると、実際に見てそう思っていた。手つかずの自然というものが一番美しくて、杉檜の植林をすると、面白くなくなる。ところがその手つかずの自然と思っていたものは、いわゆる薪炭林で、手入れの行き届いた里山のことだった。

里山は自然と人間の折り合いをつけたごく当たり前の姿だ。あの頃の藤垈は薪と炭で暮らしていた。山が復活する範囲で木を切っていた。その薪山の範囲が盆地を囲む見渡す限りの半自然林というのだろうか。里の暮らしは周辺の山と結びついた。しかし、手付かずの自然の方がさらに美しいのだという思いもあった。尾瀬に行ったときにこの自然は手つかずの自然なのかと、父親に聞いたことを覚えている。それならこれを美しいものという基準になるのではないかと思ったのだ。今は手つかずの自然を絵に描こうとは思わない。公園のように、整備された場所も描こうとは思わない。富士山に映えるように、菜の花を景観の為だけに植えたという場所は、景観を崩していると思う。まして山にソメイヨシノを植えるようなことも汚しているようにしか見えない。生活の手の入る自然が風景ではないか。それは絶景ではなくごくありきたりのものだ。

 

 - 水彩画