就職の考え違い
電通の過労自殺認定が注目され、日本の企業での働き方が問題になっている。就職を出来なかった人間の思いがある。就職はしなかった。自分らしく生きられる勤め先が見当たらなかった。高校生が大学受験で一生懸命になるように、大学生が就職試験に翻弄されているように見える。大学も企業も人生の一手段である。大学はお金を払ってゆくところだが、企業はお金をもらえるところだ。似たようなものでは全くない。子供の頃からの受験の後遺症で、良い企業に入社することが目的になっているのかもしれない。自分の人生は自分で決めなければならない。企業は人生など決めてくれない。企業に入社してそれが生きがいになる幸運な人も居るだろう。自分の生き方を決めることが何より優先される。自分の生き方を貫くためには、企業に入らなければならないこともあるだろう。孤独に山の中に行かなければならないこともあるだろう。全てはその人が選ぶことだ。
入社した企業が労働者を酷使し、人間扱いしないと思えば即やめればいいだけのことだ。お金や身分に捉われることで辞められないとすれば、次の道を見つけられない。生きるという事はたった一回のすばらしいものだ。貴重な時間である。いや嫌日々を送ることは全く必要はない。企業に入れるほどの能力があるものが、普通に働く気になれるなら、間違いなく生きて行ける。好きなことをやるならなおさらのことだ。好きなことならどれほど働いても、消耗しない。寝る間を惜しんで絵を描き続けたこともあったが、少しも消耗しなかった。楽しくその時間を満足した。絵描きにはなれなかったが、誰にも不満を言えないのが自分自身の人生であれば、全て自己責任である。生きるという事は失敗ばかりである。上手く行くことなど半分もない。しかし、それは自分の考えの方角が悪いのであり、能力不足である。方角を改め、能力を磨く以外にない。他人には全く関係がない。企業も関係がない。
酷な言い方になるのかもしれないが、学校嫌なら明日から行かない方が良いし、会社が嫌なら、明日から次の道を考えればいい。まず今やっていることをやめてみなければ次のこと等見えないものだ。何もないところに立ち、次の自分の人生を考える。そこから道は必ず見える。私は画家になる能力はないが、絵は好きなのでどうするか。こう考えた。何とか一生絵を描く道を歩もうと決めた。そして、結局のところ自給自足に歩み始めた。その日暮らしの工夫の面白いこと。あれよあれよと楽しんでいる間に、30年が経過した。その間絵は週に一枚くらいのペースで描き続けることができた。確かに碌な絵はないのかもしれない。全力を出そうとしてきたのだから、それでもいいと思えるようになった。画家がうらやましいどころか、辛そうにしか見えなくなった。辞めなければ次の道は見えてこない。自分で生きるという事が面白い。何とかなるものだ。それが67歳まで、勝手にやってきて思うところだ。
企業に勤めることは、安心立命にはならないという事だ。企業での労働時間や働き型ばかりが話題になっているようだが。企業というものの目的を考えればわかることだ。資本は利潤目的で動いてゆく性格がある。利潤の為の材料が社員だ。もちろんその中でも生きがいもあれば、企業の社会貢献という事もある。しかし、根本には利潤の競争原理が存在するのは当然のことだ。誰しも自分の人生を無駄には出来ない。あとどれくらい時間があるのか、誰にもわからないが、生きている間はやりたいことを精一杯やるほうがいい。何が好きで、何がやりたいのかである。違うと思えば道を変えればいい。それができない原因は、身分や立場がなければ、生きられないと思わされているからだろう。しかし、自給自足の暮らしはほとんどの人に可能なことだ。一日1時間100坪の土地で人間は生きて行ける。私は何の身分もないが、好きにやらしてもらったと思える。