AIは人間を超える。
囲碁で最強と言われた、韓国のイ・セドルさんがコンピューターに完敗した。コンピューターが人間の能力を大抵の分野で超えるのは、2045年ころだそうだ。あと30年あるから、私がその現場にいるかどうかは微妙なところである。いまより人間も死ににくくなるのだろうから、生きている可能性はあるかもしれない。コンピューターにやってもらいたい一番のことは、政治である。私たちが幸せに生きるためには、どの方法が最善であるか、コンピューターに決めてもらいたいと思っている。コンピューターは、政務調査費の不正をしないし、憲法の拡大解釈もしないだろう。医療分野などでは、人間より的確な診断をするようになるのはそう遠くないらしい。人間の医師は間違うし、見落としやミスが多いいものだ。中には拝金主義が影響したり、名誉欲でひどい目に合う場合もある。おなかが痛くなったので、コンピューターに見てもらう日が遠からず来る。まずは、医療費削減の為にもコンピュータ連動の健康測定施設を行政がととのえることだろう。
何故、コンピューターが人間を超えようとしているは、自ら学び改善してゆくシステムを確保したからだ。コンピューター自身が問題点を修正しながら、初期の段階の意図を超えて成長してゆく仕組みが出来たという事らしい。ここが興味深い。まずは、チェス、囲碁、将棋と人間を超えて強くなった。こうした分野では人間との差は広がるばかりであろう。それが医療分野や自動車の運転などでも正確な判断をし、的確な実行をするという状態が、もうそこまで来ている。農業分野でもコンピューター管理の方が、人間より優れているという工場生産の農産物がヨーロッパから始まっている。機械というものは、産業化され、利益が出るとなればどんどん能力が高まり、人間には判断できないレベルの植物の状態を的確にとらえ、天候の変化を予測し、最善の対応をする可能性が高い。あと10年もしたら、コンピューターが作るお酒の方が、美味しいなどという事になるはずである。手作りは郷愁になるのかも。
課題は、拝金主義や軍国主義にコンピュターが利用されるという事だろう。悪い独裁政治家が登場して、コンピュターを利用して世界を支配しようと悪用することだろう。すでに、こういうことでは動き出している国があるはずだ。これも30年後には現実化しているはずだ。コンピュターの使い方を誤って、人間はそのことで滅びる可能性も高い。世界企業の競争に任せておけば、利益を求めて国家の意味を変え、共同社会の成立を阻害する。コンピュターで運営された企業は利益にならない弱者を排除することだろう。それでも、科学技術の革新のコントロールは出来難い。原爆の制御ができないのと同じことだ。コンピュターが人間の為に良いものであるための、今から使い方を決められなければ人間は滅亡する。人間の為の科学とは何かを徹底して研究すべきだ。
では人間はどうなるかである。コンピューターの奴隷になる外ないという事か。それは違うと思う。機械相手に指す将棋や囲碁でも人間相手以上の面白さがある。この面白さは、自分の脳を動かす面白さである。人より劣る脳であっても動かくす面白さはそれなりにある。絵画分野でも絵を描くコンピューターが出来て、誰よりもうまく描くことだろう。絵画の希少価値はなくなる。しかし、人間は私絵画を止めやしない。絵を描く面白さは、人と比較するようなことではないからだ。一人一人が幸せに、自分の生命を全うする。その手助けとしてコンピュターを使うようになればいい。人間が人間らしく生きるために、人間らしくない仕事をコンピュターに変わってもらえるとしたら、実にありがたいことだ。食べ物を自給するという事の意味も、全く変わるはずだ。コンピューターをうまく活用すれば、自分の生き方の選択を純粋なものにできるはずだ。この点では楽観している。