日本人が残念になってゆく。

   

舛添つるし上げ騒動に見る日本人の阿保化現象のすさまじさには驚いた。文春のビッキー騒動と何も変わらない。結局政治資金規正法は話題にもならない水準で終わった。日本人は今や憂さ晴らしの餌食を探しているだけのようだ。報道機関は注目が集まれば満足のようだ。原発事故以来日本人は鬱屈した不安の中に生きている。優秀なはずの日本人が実のところは、愚かな想定外を繰り返す普通の集団だったことに気づき始めた。何をやっても1番にはなれない当たり前の現実。第3の矢も飛ばずじまいの日本。この予想外の状況に、著名人のつるし上げ以外に娯楽がない。ヘイトスピーチも同根。そういう私も、アベ政権をあげつらう事で、憂さ晴らしをしているという事になるのだろう。江戸時代に培った人間力をいよいよ使い果たした。もう民衆の伝統的日本文化は保存会だけのものだ。文化後進国に成り始めている。これは伝統的農業を失ったがためだ。農業を失い変わるべき人間創造の場面が見つからない。

確かに、ベッキーさんも舛添氏も好みではないが、文春に踊らされて狂喜乱舞するテレビにはさすがにゲンナリした。視聴率至上主義。経済効果はいくらだったのだろう。何かを作り出すことに比べて、ケチをつけることは楽なことだ。私も書きがちである。東京オリンピックも前回は、ケチをつけるどころか、本気で世界に日本を打ち出す機会にしようとする空気に満ち溢れていた。ところが今回はケチを見つけては、大騒ぎを繰り返している。聖火台の次の賄賂問題は深刻である。今なかったように静まっているが、フランスは黙っているような国ではない。どうも世界中が同じようなことらしい。トランプ現象にイギリスのEU離脱。国際競争に疲れがが出ているのだろう。企業は国家を超えて競争をエスカレートしている。国際政治が国という単位に戻った時、グローバル企業と呼ばれる存在はどこに位置するのだろうか。企業の国に対するマイナス面をどう評価すればいいのだろうか。コントロースしきれない事態を自国有利にだけ持ち込む競争。

国でも、民族でも、どちらでもいいが、人間は集団で存在価値を持つ動物だ。日本人が日本人としての暮らしの充実を得るためには、日本人としての文化の蓄積が必要である。ところが、日本人が国際化するに従い、農業を止めて近代化するに従い、日本人としての暮らしは空洞化してきた。それは仕方がない面もあるとは思うが、そのために安心立命を失った。価値観の流動化が起きた。どうやって、近代化しながらも稲作文化で培った日本人を再構築できるのか。思いやりとか、もったいないというような価値観が共通のものでなくなった時に、安心して暮らすことが出来なくなる。農業に戻ることは出来ない願いだろう。農業は工場労働者的な農業企業の時代になる。伝統的農業で培った日本人の安心立命を、どのように再構築するか考えてみなければならない。それはグローバル企業の中では無理なことだ。異文化との競争の中では失われるだけだ。日本人という集団の中で再構築できるかである。

この点では次の世代に期待するところである。そもそも日本というものを形成したのは一部の人間であろう。その一部に思いやりがあり、もったいないという暮らしをしていたがために、節度ある集団が産まれたのだ。全体に期待するのではなく、一部の心ある人が居れば大丈夫だ。自然とのかかわりを失わないことだ。豊かで多様性のある日本列島であることを思い起こすことだ。自然と呼応する暮らしを再構築することではなかろうか。ITを拒否する必要はない。そうした新しい科学技術の恩恵を受けながら、もう一度自然に呼応する自分の暮らしを一人一人が考えてみることではなかろうか。自然は見方さえ変えれば、いつでも豊かさにあふれている。自然とのかかわりの中で、自分の暮らし、自分の仕事を考えてみることではなかろうか。

 

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