故郷を描く

   

原の集落から寺尾の方向を眺めたところ

自分の生まれた場所を描くというのは初めてのことだ。先日藤垈、原、寺尾と桜の季節に回って、一度描いて見ようと思うようになった。自分が広がる空間を描きたくなるのは、子供の頃甲府盆地の広がりを眺めて育った影響なのではないかと考えた。以前友人が、全く何もない駐車場とか、グラウンドとかの平らなところが描きたくなるという話をしていた。それと同じで、何か盆地のような囲まれた空間があって、盆地という鏡に空が映っているような感覚が、何か自分の眼の底に焼き付いているのではないかと気付くところがあった。甲府盆地はその昔は湖だったという話をいつも聞かされていた。湖という言葉と盆地の底に広がる畑の連なり。この連想がいつの間にか甲府盆地が幻覚のように水面に映っている情景として刷り込まれた。当時坊が嶺からの景観が山梨県の景勝地10選に選ばれた。しかし、その坊が嶺からの眺めよりも、向昌院からの眺めの方がずっと良いと思っていた。

 

原で絵を描き始めたところこのあたりまではすぐ進む。

向昌院の梅の木の下から見れば坊が嶺がすでに眼下に広がる景色の一部だった。しかも左右に額縁のように、山が突き出していて、切り取られた風景として実に見やすいものに出来上がっていた。おばあさんは大きな梅の木の下からいつも眺めていた。何を眺めていたのかはわからないが、村の方を眺めて佇んでいるようだった。何を見ているのと聞いたものだ。しかし、答えてくれたことはなかった。そして、甲府盆地は昔は湖だったんだ。という話をしてくれる。湖を見ているのかなと思ったものだ。私は藤垈(ふじんた)で生まれたのだが、母は2キロほど北東になる寺尾というところで生まれた。寺尾の乗泉寺という寺である。6歳くらいまでそこで育ち、その後藤垈に移った。寺尾は良かったというのがいつまでも口癖だった。私には寺尾の方が良いという事が分からなかった。聞くと母は空が広いし、明かるいと答えた。6歳までに焼き付いた景色の方が生涯残っていたようだ。

自分が農業をやってみたくなったのは、子供の頃の暮らしである。除草剤などない時代で、草取りがつらかった思いでは人並みにある。しかし、坊が嶺に開墾に行った思い出など忘れられない愉快なものだ。今回坊が嶺にも行ってみた。あの頃麦やカボチャや桑。そしてサツマイモ。サツマの苗を植えて水やりに行った。根付くまでは水をやらねばと雨が降るのが待ち遠しかった。その時、サツマを植えたのに農業を知らないで枯らしてしまい、餓死した相模原の開墾地の兄弟の話を聞いた。その餓死したときから10年は経っていない。せめて草をかけてやらなければとおじさんが苗に草をかけてあげたのだそうだ。だけれども結局は枯らしてしまい。食べるものが無くなり栄養失調になった。そういう子供は同級生の弟にもいた。そう、とても苦しかったが一生懸命に生きた。生きることにじかに触れていた毎日。それが絵をあきらめて、もう一度再スタートの時に考えた自給自足の暮らしだった。

絵は確かに甲府盆地の幻覚の湖に写る空なのかもしれない。母があれほど懐かしがった寺尾を描いて見た。確かに美しい村だ。2つの谷に挟まれた、甲府盆地に突き出した半島のような土地だ。いたるところに菖蒲が咲いていた。ブドウなどの果樹が中心の農業のようだ。野菜も皆さん作られていた。近くにある道の駅に出荷しているのではなかろうか。母の生まれた乗泉寺にも菖蒲が咲いていた。今は無住のようにみえた。お寺さんもこれからどんどん減ってゆくことだろう。懐かしく寂しいことだったが、私がどうしてこういう場所が描きたくなるのかは、わかった気がした。自分が描きたくなる気持ちに従い、生まれた場所にたどり着いたようだ。自給の暮らしをしたくなったのも、生まれた土地での暮らしを思い出したからだ。そのことがこの先どう言う事になるのか、突き詰めてみたい。

 

 

 - 水彩画