リアルのゆくえ展

   

平塚市美術館で6月11日まで開かれている展覧会である。田んぼの仲間の恩田さんがしきりに良かったと言われていたので、急いで見に行ってみた。私の場合リアルの行方が知りたかったかというより、高橋由一の鮭や岸田劉生の麗子像の確認をしたかった。そしてどうも日本の洋画の世界のわびしさを確認することになってしまった。何処の国も、歴史的なその民族の絵画というものがある。そこに海外の絵画がぶつかり、その衝撃でゆすぶられて生まれる反応がある。その反応は案外のその民族を垣間見せる。昔北欧の印象派という展覧会をストックフォルムの美術館で見た。北欧3国の画家で、パリの印象派の影響を受けて、そんな風に描いた絵描きたちの展覧会であった。あれを見た時と類似の衝撃を受けた。真似は面白くないという単純な事だ。ロシアのイコンの世界とレーピンのリアル絵画と較べた時に、イコンの世界に魂が魅かれるという事に近い。その民族が長い歴史を経て、育ててきた文化は簡単なことでは越えられないという事になる。

明治期の高橋由一の鮭の絵を見るのは5,6回目かと思う。この作品は芸術としての絵画だとは思わない。油彩絵の具の試験というようなものだろう。材質感を日本画よりも表現しやすいというような驚きがある。新巻鮭の干された魚肉の質感や皮や鱗ぬめりのようなものに、何処までも迫ろうとしている。その結果新巻きじゃけの匂いまで漂う絵画になった。しかし、これは芸術としての絵画ではない。むしろ、生物標本のリアルさに真剣に迫ろうとする姿勢のあまり、その迫る人間の気骨のようなものがたまたま現れ出てしまったという事に過ぎない。それはそれですごいことではあるのだが、絵画する姿勢というものから考えた時に、高橋由一という人間の表現はどこにも感じられない。以前科学博物館で行われたボタニカルアート展で蘚苔類の標本画を描いた苔学者の図録を見たことがある。そのリアルさへの病的な熱意に驚きを感じた。それは独特の絵画だとは思ったが、それは芸術とは言えない。そういうものと自分の考える絵画とは別物と考えている。

芸術表現とはそこに作者の人間が感じられなければ、私には見るべきものがない。その点岸田劉生の絵画は劉生の人間の表現である。リアルであるというのはたまたまのことで、この人は人間の魂のようなものを描こうとしている。それは壺の魂であり、風景にある生命感である。この人の眼には、肉眼で見えるという事の先にある、心の目に映る何者かが見えていたのだ。麗子の命の姿が見えていた。その命というものの不思議にはじまり、存在するという事の不思議を思想として画面化しようとしている。リアル表現は見えているのだからそう迫る以外に方法がないという、その時の技法に過ぎない。リアルに迫ることだけがその見えている不思議に近づくこととも考えていない。それだけではない何ものか、肉眼で見えてしまうものの奥底にある何かは、肉眼的にどこまで迫ろうとしても、迫り切れない何かがある。このやり尽くせない、見えたように描けないという絵画の限界のようなものに直面し、自覚しているすごさなのだ。絵は出来ないという事が明確にできれば、その作者が現れることもある。

総じて日本のリアル絵画のみすぼらしさ、底の浅さを見せてもらった。ベラスケスに迫れるような人はわずかにもいない。リアルの先にある絵画芸術にあるべき豊かさというものがまるでない。草土社の絵に至って、リカルのゆくえは絵画的になるが、その後現代にいたるまで、絵と言えるようなものはない。フィギアスケートでも、体操競技でも芸術点というものがある。ただトリプルアクセルが飛べただけではなく、その飛び方が芸術言えるほどの美しさを表現していることが評価される。リアルのゆくえは、4回転が出来れば、4回転半という世界である。それはそれですごいことではあるが、もうすぐ、6回転でも軽々とこなす、ロボットが登場するのだ。リアルだけ考えれば、機械を超えることは出来ないものだ。その時に、人間は何をするかである。コンピューターソフト囲碁に対して置き碁でも勝てなくなった人間が、コンピュター同士の戦いの、芸術的評価をして鑑賞している姿は奇妙だ。もうしばらくである。人間が自分の脳の力を高めるため、深めるために囲碁をすることが良いのだ。自分という人間の奥底を探るために絵画はある。あくまで自分の為の芸術である。

 

 

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