笛吹市の桜満開

   

笛吹市の桃畑はずいぶんと広がった。何処へ行っても今満開である。この場所は上が、桜で、ふもとにあんずが少しある。白いところである。その手前へには桃畑がある。手前の草の中にはタンポポが咲いている。西に南アルプスが見える。北岳や甲斐駒が高く見える。昨日はよほど晴れていて、一日中山が見えていた。桜はまさに今が満開で、桃と丁度重なって、色の変化がこれ以上はないというほど見事である。ここは笛吹市の市役所から少し西に行ったところの城跡のようなところがある。下に小山荘という老人ホームがあった。桜が盛り上がるように咲いていた。周辺は桃畑で何処ら見ても見事だ。絵になるところがなかなか見つからず、結局絵になりすぎるようなこの場所で、結局描くことにした。東側に車が止められる場所があったが、描きだしたらすぐに消毒に来た。山梨ではこういうことを何度も経験している。出て行けという事だと思うが、窓を閉め切って描いて居た。光の春が描ければと思いながら、なかなかできない。白い桜の幽玄な空気がただものでない。結局のところあまりに美しくて自分のものにならないという事なのだろう。自分のものというのは、自分の狭い了見に収まらないという事かもしれない。

描いている途中の状態。空はあまりに青いので、乾かしたコバルトブルーをパステルでこすりつけた。この後溶かしながらと考えて進めているところ。

午後から、寺尾というところに行った。私の母が生まれたところで、確か常楽寺さんではないかと思った。その後母の家族は藤垈の向昌院に移ったという事だった。祖父は本山から北海道に宣教師として赴任していた。そして本山からの指示で境川のお寺の住職になるよう言われたらしい。そして、寺尾の寺に一時的にいたのではないだろうか。しかし、最初に入るように言われた向昌院は前の住職の家族がまだ残っていて、祖父は特に入る気がなく、本山に戻りたかったようだ。しかし、常楽寺でとても気に入られて、何とかここに留まるようにという事もあり、油川の石原という家の祖母と結婚をさせられた。と祖父から聞いた。このあたりについては、おばあさんから聞いたことはなかったので、真実はよく分からない。母は寺尾で寄宿しているときに長女として生まれた。今回行ってみてその寺は常楽寺ではなかろうかと思った。子供の頃何度か遊びに行ったことはあったが、よく分からなくなっている。寺尾も美しい場所だ。そして、藤垈との間には原という部落があり、ここも美しい村だ。それに比べて、藤垈は谷間の村で展望がない。母が生まれた寺尾が良かったという事を繰り返し言っていたことが今は分かる。

改めて寺尾と原を描きに行ってみようと思う。今回は一まわり見るだけにした。思い出が強いので、今回の花を描きに来た気分ではちょっと絵を描くのは無理だった。心の中の風景というものがある。自分の奥底にある景色。私には藤垈の景色は特別である。しかも、今の景色ではなく、60年前の景色だ。坊が嶺という小高い丘があるのだが、一面畑だった。それが今は藪に覆われている。藪に覆われた坊が嶺を見ても、何にも見えてこない。あの畑を張り合わせて作ったような、坊が嶺の眺めが鮮明にある。それはそこを開墾し、水をリヤカーに積んで引っ張り上げた思いでがあるからだ。おじさんがほとんど一人で引っ張るのだが、途中の畑の人がいると、「水は居るけい。」と言って水を分けてあげてしまう。上の方にあった開墾地に着くころにはほとんど水が無くなっている。明日又運べばいいさと言っていた。何故おじさんは水を上げてしまうのだろうと、あの辛いリヤカー押しを思い出す。村を上げての坊が嶺開墾だった。おじいさんは村役場に勤めていたから、開墾を頑張らなければならなかったのだろう。どうも絵を描くという事はそういう事まで出てくる。

 

 

 - 4月, 水彩画