バトミントン選手の賭博
2016/04/19
バトミントン選手の日本代表選手が違法賭博をしていた。起こるべくして起こった事件だ。スポーツ界全体での蔓延が予想される。世界ランキングで2位というから強い選手である。リオ・オリンピックで金メダルの期待のされた選手。何故こういうことが起きたかははっきりしている。日本の社会が賭博社会になっているという事である。このことは何度も書いているが、報道を見ていても賭博は良くないという指摘がなされず、まるで個人の資質や、そのスポーツ分野の体質の問題のようにしか取り上げない。あえてもう一度書いておく。日本で裏カジノが禁止されているのは、公営ギャンブルでの利益を政府が独占したいからに過ぎない。公営ギャンブルでは政府の上前の撥ね方が大きく、なかなか儲かるものではない。そこで、裏賭博が蔓延する。バトミントン選手は海外遠征の際、合法カジノに行って、賭博のスリルにはまったという事らしい。海外のカジノなら問題なく、日本の公営賭博でも問題なく、裏カジノだから問題にされたに過ぎない。賭博が反社会的な行為という倫理が失われている所に問題がある。
日本の街にはパチンコ屋というギャンブル場が溢れている。普通の市民が暮らしている場所にこれほどギャンブル場が溢れている国は世界に他にはない。この異常な状態を日本人は当たり前としてしまい、違和感すらなくしている。日常至る所にあるギャンブル場を子供の頃から、見成れているのが日本人である。また、政府や各地方団体は公営ギャンブルを推進し、テレビコマーシャルまで平然と流されている。誰も競輪や競馬を悪いこととは感じないようになっている。そして、宝くじやロト7はもう日常ごとになっている。そういう環境で育つ人間は賭博に対して倫理的な抵抗感がなくなる。なぜこれほど賭博が蔓延してしまったかと言えば、社会が閉塞的であるからだ。能力主義、競争主義社会の中で、能力のない者が競争に勝つためには、賭博ぐらいしかいないのだ。そこではけ口として、批判が政府に向かないようにギャンブルを容認している。
今回の選手は自分は競技者で勝ち負けで生きてきた。賭博のスリルの誘惑に勝てなかった。と述べている。つまりスポーツで勝つという事が、賭博と同じ感覚なのだ。子供の頃から、強い選手になって大金を得たい、だから頑張るという風に生きてきたので、一種のギャンブル依存症になりやすい体質になっていたという事になる。これは資本主義社会の問題なのだ。競争に勝つことが価値があり、敗者が貧しいのは自己責任という事になる。勝利する能力ある者が日本経済をけん引し、能力のない者はその恩恵やおこぼれで生きる事を受け入れろ、という図式である。こんな社会はおかしいのだ。能力と人間の価値は関係がない。人間は競争が無ければ努力をしないという、決めつけがこういう社会を生んでいる。
確かに、オリンピックで金メダルを取るという競争に勝ち抜くことは、人類の中で一番の努力なしにはあり得ないことだと思う。しかし同時に、運動能力という生来のものを与えられた人間でもある。努力は必要であるが、努力だけですべては解決できないという事も事実だ。能力主義では努力を絶対のものとして、人間を選別にかけている。そういう差別の構造になりやすいのだ。スポーツで頑張ることが、そもそも賭博のようなものになっているのだ。金メダルは世界に一つのものだ。必ず敗者がいる。努力はしたとしても敗者は存在する。勝敗に関係なく、努力をする者を評価する社会に変えなければならない。自己新の思想だと思う。その人間として、最大限の努力をしていることを認め合い、評価をする社会を目指さなければならない。努力したとしても、日本経済の役に立つところまでは行かない人間もいる。それでも、人間の価値は変わらない。ごく当たり前のことに気づくべきだ。