ストレス解消法
蔵王 中盤全紙
人間誰しもストレスがある。他の人にとっては何だこんなことぐらいで、という様な些細なことでもその人にとっては、耐え難いほどの怪物に育つこともある。私の様な人間は、ストレスは受けにくい人間なのだと思うが、それでも不安にさいなまれることだってある。気に病むというか、良くあるのが、何かを発言してしまい、後で言い過ぎだったという後悔である。物言えば唇寒しと言う感じに、落ち込む。それでも言わないでいられない性分である。単純におしゃべりなのだ。あのときなんで先生にあんな質問をしたのかなど、50年前の中学校の授業のことだったりするのだから、もう50年の後悔である。忘れたくとも忘れられずに引きづっている。時にそういうことが積もり重なり、怖くなって、一言も言えなくなることもある。そういう場面に出来るだけ出ないようにしたいということは心掛けるのだが、自治会長をやっていて、定例会議で発言しないということはできない。上手くは行かないのだが、やらない訳にも行かない事がある。
それでも年齢とともに、不安で眠れないということは少なくなった。だから、このように公開日記を継続できるのだろう。不安が無いわけではなく、むしろいつも何かしら気がかりで、焦りに追われ不安はある。これは歳を取ってからの方がむしろ強まった様である。結論を出したいとか、後が無いという感覚かもしれない。それでも眠れないというような深刻なことにならなのは、歳を取って神経が摩耗して無神経に成り、厚かましく成ったというのが一番だろう。様々な場面を重ねてきて、面の皮が厚く成ったということで、何とかなるさという気持ちだ。耐久度のテストの積み重なっている。感じる能力と言うものが衰えてきたと言うのも、実際感じるときがある。歳を取るというのは、このような良いこともある。だから、キリキリした不安ではなく、ボーとした漠然とした、不確定な不安感である。老人性鬱とかいうものと、関係しているかもしれない。
ストレスをためて、怖くなってしまったときの対処法である。一般にストレス解消法にはスポーツをやって汗を流すというものがある。身体を動かすと、ある程度嫌なことは消えてくれるはずであるが、私でいえば、畑仕事をして汗を流す。肉体を使うことで、さっぱり出来るという事では効果が薄い。どちらかと言えば、草取りをしながら、くよくよ思い返しているということが多い。つい絵のことなど考えていて、集中がない。汗と一緒に流せるくらいなら。身体を動かし、ストレスが消えてくれるならいいのだが、実際はそうもいかない。それでも農作業は悪くない。一日過酷に肉体を使い仕事をすると、生きている達成感の様なものがある。農作業には終わりがない。どうせすべてをやり尽くせる、というようなことはない。すべては不十分で、中途半端である。たぶん中途でも何とかなるよというのが、農作業のストレス解消である。
自然という大きな存在は受け入れてくれる感触がある。そして、農作業は収穫物を与えてくれる。この折り合いの状態が農作業はいい。これが社会を相手だと折り合いがつかない。そこで、ストレスがない状態を望まないことにしている。ある程度のストレスの中で、どう耐えるかが健康的な状態と考えるようにしている。ストレスは仕方がないものだと諦めたのだ。どうせ消えないのなら、その実態に迫る。ストレスが明らかになれば、諦められるというこ発想である。冷たい水に浸かって耐えようとしたときに、体中に力を入れて我慢するというのと、すべて力を抜いて水の冷たさを味わって耐えると言う方法がある。この両極をタイミングで使い分けることにしている。ストレスを明らかにして、仕方がないと諦め、受け入れがたい苦しみを受け入れる。そうして先延ばしにしていると、何とか切り抜けることが出来る。解消法というより、妥協策である。