新聞は取らなかった。

   

桜 10号 桜の持つ異様なエネルギーはとても面白い。あの不気味な黒い木が、年に一回あのあでやかな花を咲かせる。

新聞と言うものを定期購読したことは、一度もなかった。情報と言うものは無料の方が良いと思う。情報格差と経済力。文章を読むのは好きな方だ。偶然置いてあれば、必ず新聞を読みたくは成る。しかし、お金を出してまでは読まない。新聞を作るには莫大なお金がかかるのだろう。だから一方では、読みたいならお金は出さなければならないと思う。しかし、タダで読めるなら読むという範囲で新聞を読んできた。今はインターネットで、新聞を読むことはある。日経新聞のインターネット版では、月に10本まで無料で記事が読めるとなっているが、せいぜい月に2,3本しか読まない。紙面番とインターネット版では内容は違うようだ。他の新聞でも追随して、見出しと冒頭の部分だけが無料となっている記事がある。読みたければ有料会員に成りなさいと言うことのようだ。その記事だけをいくらか払えば読めると言う種類のネットニュースもある。しかし、お金を払って読んだことは一度もない。有料メールと言うのもあるようだが、これには興味がない。

新聞の有料記事システムの振り分けが面白い。新聞社がこれは有料でも読むと考えている記事は、ニュースではないのだ。最新情報ではすでは、インターネットにも、テレビにも負けていることをみとめている。すでに新聞にでるときには、新しいとは言えない。結論から言えば、調査報道がどれだけできるのかが、新聞の価値だ。実は朝日新聞の、従軍慰安婦の報道の訂正について、言いたいことがある。間違ったことを訂正するのに、ずいぶん時間がかかった。その記事を購入した人には、返金をするのだろうか。著名人のエッセイの様なものが、有料になっていることがある。そういう記事はお金を払っても読みたい記事と言うものなのかと思う。では本はお金を出して買わないかと言えば、結構本は買う。本も図書館に行けば無料で借りられるから、図書館で借りることもよくある。しかし、本には所有したいという気持ちを誘うものがある。井伏鱒二全集はいつか時間が出来た時にゆっくり読みたいと思って大切に本棚にある。何度も読んだことがあるので、読んだことのない文章はもうないのだが、何度でも読みたい気持ちがある。なにしろ、文章を筆で写したことまである。

ネットでお金を払うということには、だいぶ慣れて、何とか理解しているので、有料の文章に対してのお金の払う方法は分っている。それでもネットの記事にお金を払う気にも成れない。無料で素晴らしい情報があふれているのに、わざわざ有料としている仕組みが気に入らないのだ。色々の人の絵を何十枚も買って持っている。眺めている価値があるからだ。価値があると思う絵だから購入する。最近はあまり購入できない。自分が死んだ時の処分に困るからだ。私が見ていたいと思う絵はおおよそ世間では評価ができない。私絵画であるからだ。私絵画は自分だけの問題として、呼びかけてくるものがある。その呼びかけを時々聞きたいと思う。しかし、私が死んだときに、私の絵と一緒に処分に困るだろと思う。せめて、今ある絵の死んだ後の処置は、私自身がしなければならない。新聞のことだった。ネットが出来た以上、報道の役割は変わった。変わったのに、まだ新聞社は変わっていない。このギャップというか、変わってゆく姿を見ているのは興味深い。しかしインターネットの溢れている記事に、訂正と言うのはあまり聞かない。訂正が必要なほど信頼がされていない。

朝日の吉田取材記事の誤報道を鬼の首を取ったように、産経新聞は書いている。自民党でも国会で喚問するようなことを、石破氏が口走った。従軍慰安婦の本質は何も変わっていない。すでに、こんなことは既成の事実だった。間違ったことを訂正するのは当たり前のことだ。私は朝日にお金を出したこともないので、私への謝罪はいらない。日ごろ朝日はねつ造だと公言している人間が、ねつ造記事で騙されたのだろうか。従軍慰安婦は存在した。軍の強制を云々した所で無意味である。軍の手先が、軍の意図を慮って、必要悪のようなつもりで、汚い仕事を率先して代行した事例が多いいのだろうと、私は想像している。こういうことは今の時代にもない訳ではない。この問題では、第3者の国から、日本がどう見られるかを、充分に意識すべきだ。ヘタに弁解すればするほど、ど壺にはまってゆく。橋下氏の様に居直るのが一番良くない。今、突っ張ってみても日本と言う国に何の益もない。近隣諸国と未来志向の外交と言うなら、過去の事実云々ではなく、第3国の善意の人の目にどう映るかを、考えてみる以外にない。

 - 身辺雑記