安倍総理のおごりとゆがみ
川の流れ 10号 久野川である。この絵の写真も縦横が間違えている。仕方がない。
最高の責任者は私だ。私は責任者であって、政府の答弁にも私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは法制局長官ではない、私だ。
国会での安倍総理の発言である。憲法解釈の変更について、法制局長官に質問しようとした時、逆切れして、遮った安倍氏の発言である。安倍氏は日本が立憲主義の国家である意味を誤解している。総理大臣は憲法に従って国の運営を行うことが決められている。その時の情勢によって、憲法解釈を変えてゆくようなことは、基本的にはしてはならないことだ。しかし、長年平和憲法と自衛隊の関係に無理があり、憲法解釈を広げて対応してきた事実がある。その責任を担ってきたのが法制局である。総理大臣ではない。今行おうとしている、集団自衛権の解釈の変更は、さらに別の問題である。自衛隊については、自衛権というものは憲法以前に、あらゆる国家に存在するものということが世界的に、確認されているという見解が、根拠なのだろう。それ故に平和憲法に於いて、武力による国際紛争の解決をしないと決めたとしても、攻撃してきたものに対して、武力をもって自衛上の抵抗はいかなる場合にも存在するという考えは、一応成り立つ。
しかし、集団的自衛権ということになると、同盟国の自衛の為のということになる。イラク侵攻にまで自衛隊が加わることが、現行憲法上許されるという解釈変更に成る。立憲国家に於いては、これは解釈の拡大ではなく、憲法を否定していることではないだろうか。国際紛争を武力によって解決しようとするのである。この憲法解釈はたとえ選挙で選ばれた総理大臣であれ、責任を取ることが出来ないことだ。武力行使を解釈拡大で済まそうとすることは、立憲国家の三権分立を侵すことに成る。どうも安倍氏は本音がどこにある人なのかが分らない人だ。靖国神社に総理大臣として、参拝することこだわった。では、国会での質問で、靖国神社の考え方を支持しているのかとなると、意見を言わないとしている。では、村山談話、小泉談話、や河野談話を認めるのかと言えば、これまた何を言っているのか明確ではないが、認めているようだ。第二次世界大戦を侵略戦争と考えているのかと聞かれても、曖昧模糊としている。こういう態度だから、たぶん安倍氏の本音は、靖国神社の精神と同じなのだろうと考えざる得ない。なんとも優柔不断というか、理解しがたい人だ。
安倍氏は実は文楽人形なのではないか。自分の考えというものはなく、数人に操られている。靖国参拝は世界中の戦没者の為だというような、誰かに教えられたようなごまかし発言をする。これは安倍氏の本音からすればほど遠いことではないか。世界の戦没者の鎮魂の為に、靖国を参拝する訳がない。靖国神社でなく千鳥ヶ淵霊園に行けばいい。あるいは国立霊園を造ろうとするはずだ。誰もが、ああはいうが、安倍氏の本音は靖国精神の人なのだと考えざる得ないと言う所だ。石原慎太郎氏等は、明確にそう信じ、安倍氏を支持している。田母神氏も同様であろうし、さいきんのNHKの経営委員や会長などもそういう考えだろう。そして、様々な内閣府の審議会を構成する人たちは、侵略戦争を認めない人たちで構成されているように見える。それが憲法改定の多数決論に繋がり、今度は憲法解釈責任者論である。
アベノミックスは4月以降化けの皮が剥がれてくる。実質経済が変わっていないからである。産業構造の改編に向かっていないからである。他のことは知識が少なくてよく分らないところもあるが、少なくとも、農業分野では第3の矢は放たれることもなかったからである。日本の現状はソフトランディングの地点を探すことが緊急要件である。発展途上であれば、様々な矛盾が変化の中で吸収される可能性もあるが、成熟した日本に於いては、安定を求めて、競争を徐々に降りる方法を探るしかない。世界の1番を続けることなどできないで当たり前だ。そこそこでも、幸せに、豊かに暮らせる道を探るべきだ。安倍氏を操っている人たちは、最後の責任は安倍氏に押しつけて消えるだけだろう。安倍氏には自ら傀儡であることに、疑念があるのだろう。安倍氏は国会で逆切れして、その自己矛盾を答弁していたと見える。