苦労は修行になるか。
「若いうちの苦労は買ってでもしろ。」という言葉がある。これは、若くない人が若い人にたいして、つい口を突く忠告のようなものなのだろう。鉄は熱いうちに打てという言葉もある。若いうちに努力をして置かないと、歳を取ってからでは遅いということなのだろう。たぶん若いうちに努力した人はこういう偉そうなことは言わないだろう。ピアニストのような演奏家は、若いうちに驚異的な技術を身につけなければ、箸にも棒にもかからならないことになる。似たような要素はどの分野にもあるのだろう。農業では観察眼である。見ることの深さが農業のレベルである。ある程度年齢を重ねて、若いころやっておけばという後悔がこういう言葉を言わせる場合が多いい。言葉には一般的なものはないと考えている。私の書いているものは、私の言葉で偏向して居て構わないと考えている。それは、論理的にはおかしいところは気にせず、実感としてはつながっているというような意味である。
そいういう意味では、若い人に対してという枠では、なにもいう言葉はない。若かかろうが、63歳であろうが、「自ら望む環境での苦労は修行になる。」と思っている。むしろ頭の固くなる年寄りこそ修行は必要だろう。修行というよりリハビリがいるだろう。社会勉強というようなものと修業は違う。それは対価が存在するからだ。修行は対価があっては意味をなさない。無意味こそ大切という世界である。5体投地でラサの宮殿を回るなど無意味の限りである。しかし、この無意味を無意味として受け取れば修行になる場合もある。これを達すれば悟りを開き天上界に登れるなど考えたら、くだらなさの極みである。私は俗物であるからと思うが、修行は出来ない人間である。収穫が無い田んぼなどやる気にもなれない。やっているのは好きなことだけである。やらなければならないこととは今だ少しあるが、何とか65歳までに片づけて、あとはやりたいことだけで生きれれば、有りがたい。
もちろん社会的なことなど何も果たさないのも生き方である。そういう身勝手な人をいい人とは思わない。勝手な人だと腹を立てながら嫌っている。そういうてき、若いうちの苦労はなどとつい口にしたくなるのだろう。こういう鉄は熱いうち倫理を、会社の社長が社員に向けて発言した場合どうなるのだろう。ブラック企業になる。寝ずと頑張るのは自分のためである。と言いながら、そ子で出てくる利益を会社は得てているのだろう。松下幸之助のような立身伝の人物は、どの社員より働くし、能力も高いのだろう。回りくどく、長々と書いたのは今度自民党の公認になる、ワタミの社長のことだ。これはあのホリエモン選挙の再来である。伝聞であるが、自己研さんの為に、自分を磨くために、死ぬ気で働くように、社員に訓示しているという。ずいぶん自分の会社の都合がいい理屈である。ワタミの為に死ぬ気で働くのは良くないことだ。報酬分だけ普通に働けば十分である。それを修行と結びつるなどあってはならない。
会社では出世したいからとか、給与を多くもらいたい為の頑張りでいい。それは本音だからそれでいい。金権主義と、倫理の建前論が混同して言われることは、とても良くない。本気で仕事をするのは大切なことだ。その大切さを、企業の利益に誘導するところがおかしい。人間が自己研さんの為に努力したり、我慢したりすることは尊いことである。そこには見返りが無いことが重要である。出世するとか、給与が上がるとか、打算があれば人間がダメになるだけだ。その人間としての良質なものを、会社の利益にすり替えてしまえば、何にもならないということである。身を削り、身を滅ぼしかねないことになる。農の会のいいのは、農の会の為が無いところである。夏の田んぼの草取りはつらいように見える。しかし、これが楽しい作業になるのだから不思議だ。