著作権について
何度も書いていることで今さらなのだが、私は著作権と言うものは文化の発展にとって障害だと考えている。私の絵でも、書いたものでも自由にどなたが使われても、全く構わない。10月から音楽や映画などを勝手にダウンロードすると刑事罰と言う法律が出来たらしい。これはあくまで商売の妨げになるということらしい。文化論的観点では議論が無い。ダウンロードを有料化すれば、その業界自体が衰退する。人間の創造する文化と言うものの発展を考えれば、自由にした方がいいはずである。歴史的に考えても、模写をするという所から、自分の芸術に入って行くと言うことは、当たり前のことだ。過去から学び、未来につなげて行く。それが誰にでも自由に出来ると言うことはとても大切なことだ。特にネットが生み出そうとしているものは、金銭に縛られたものものではないという事が大切である。
私は石涛の絵を学んだ。筆触ということはそこから来ている。ボナールやマチスでは当然ない。水彩画をやるということは、水彩画でしか出来ないことをやりたいと考えているからだ。それは色のある水墨のようなもので、まさに中国の伝統から学んだと言える。石涛だけでなく、清初期の画家の絵はとても参考になった。それは、大げさに言えば、雪舟が中国の絵から学んで、多分世界でも初めて、写生画として日本の風景を描いたような気分である。こういうあり方は、著作権的な枠から言えば、違反している場合もありうる。山の稜線の描き方と考えた場合、石涛の絵にはすごいものがある。このやり方を抜けられることはないと思う事もある。そして私の絵にそのやり方は当然現れる。そう言うことは、著作権に抵触する訳ではない。本質的には、それは石涛の発見であり、工夫である。それを真似て使っているのだから、危ないものである。しかし、石涛だって明時代の絵から徹底して学んだのだろう。構図など当たり前に同じ山水図がいくらでもある。
良く言われるのが、中国の遊園地を闊歩しているミッキーマウスである。あれを中国の偽物文化の象徴として、面白おかしく取り上げるが、何がいけないことなのだろう。ミッキーマウスが素晴らしいものならば、人類誰もが共有して楽しめばいいではないか。アメリカではミッキーマウス保護法と言うらしい。著作権の期間を徐々に伸ばしてきた。95年間も著作権を継続させるなど、無謀である。著作権を私的財産とする発想が文化を衰退させる。保護するとしても、せいぜい制作者が生きている間のことだ。デズニ―は素晴らしい人だと思うが、その著作権で生活して行こうと言う人たちは醜い。デズニ―を越えるものを作ればいいだけだろう。それが文化と言うものの良さではないか。中国が真似をしていた所で、誰が損をするものでもない。
じつはTPPの狙いは、この著作権利益が大きな目的らしい。アメリカは著作権で11兆円とかいう恐ろしい利益を上げているらしい。一見音楽の著作権保護政策が、良い音楽を作り出しているかに見える。しかしそれは、資本主義経済下の拝金主義的文化にすぎない。本来文化的創造物は、人類共有のものであり、個人の権利と考えることはいやしい考え方だ。アメリカは農産物の保護については、譲る可能性がある。農産物の輸出より、農産物の特許権の確立の方を考える。モンサントの目論見である。種苗の独占を目標にしている。具体的には、除草剤耐性の作物と除草剤のセット販売のようなやり方だ。いいものを作り出すのは素晴らしいことだが、それが金儲けだけを目的にしているために、自然環境全体のこととか、農地の永続性とかはないがしろにされている。ネットに全く制約が要らないとは思わないが、誰にも文化的な産物が、格安に手に入るということが、何かの突破口に成る気がしている。
昨日の自給作業:脱穀作業8時間 累計時間:28時間