捨てること
捨てるということはとても難しいことだが、捨てざる得ない時は来るものだ。様々な活動をしてきたが、出来る限り組織というものから距離を置こうと思う。そう言う時が来たのだろう。組織には組織なりに大なり小なり意味が存在する。その意味は、それぞれのもので、共通なものでない。私が個人として発言することが、私がかかわる組織の考えだとする人もいる。そう言うことはどんな場合にもない。この事だけは誤解しないでほしい。このブログに書いているのは、あくまで笹村という個人の考えたことである。と言っても駄目なことのようなので、出来る限り組織というものから離れようと思う。そうして、より自分の責任の範囲で生きていきたいと思う。
田んぼの会や、大豆の会、お茶の会は、市民として参加している人達の労力で支えられていた。そして、原発事故以来、農の会の実際の労力を支えていた、5名の人が農の会の活動から離れた。誰かが離れる都度、この事は当然の選択だし、尊重しなければならない。しかし、原発事故などに負けてはいられないと、無理をしてその分担を引き受けてきた。それは、同時に生産者として農の会にかかわっている人たちの中にも、負担感を広げているのだろう。私自身も限界を越えた。申し訳ない気持ちと、自分の思想の敗北を思うと、残念ではあるが、その時期が来たのだと思う。自ら捨てるということは、出来ないものだが、こういう形で組織から離れるということは、残念であるが、良いことでもあるのだろう。
当たり障りなくやって行きたいなど思わない。角があるのも止むえない。しかし、そのことで組織というものに迷惑になるらしい。そうである以上、出来る限り組織というものすべてから離れたいと思う。事なかれが嫌いという事もある。何でもはっきりしないと居られない。又そう生きるべきだと考えている。出来る限り組織というものから離れる。そうして、一人がやれることをやる。そういう時期が来たのだろう。それは原発事故がきっかけではあるが、いよいよ残りの生きることに集中しろということだろう。良い機会を得たと考えることにする。