橋下知事の馬脚

   

大阪知事の橋下氏がタレント的に評判を集めていた。大阪では以前も漫才師出身の横山ノック氏が長く知事をやっていた。神奈川県でもそうだが、最近はテレビの有名人が目立って多い。知事と言うものが、飾りだけであるならそれでもいいが、「大阪府教育基本条例案」には驚いた。維新の会などと名前が怪しいとは思っていたが、内容が教育の現場に疎い人間の意見である。教育に問題があるのは事実である。多くの人間が憂うるところであろう。しかし、公教育の改革に対し、この条例のやり方は間違っている。危険である。内容には難点も問題がある。その前提となる改革の手法がまずいけない。上から押し付けるような改革では、さらに悪くなる。教育を変えるには、社会そのものが変わらなくては、無理だと思っている。教育の目的がそもそも違っている。今風の言葉で言えば、内容的には即戦力が期待されている。さらに滅私奉公的な自己犠牲の精神の要請が期待されている。

教育は人間の探究である。人間が生きるための基本的能力を養成することが義務教育の基本だとおもう。どこまでも個人と言うものの価値の為に、行われてほしい。何か別のもの、社会とか、国家とか、企業とか、国際競争力とか。他人との比較の上に行われるようなものであって欲しくない。自らが自分を育てて行ける力の基本を付けることだと思う。美しいという感じ方は、それぞれに異なる。緑の木々を見て、吐き気をもようするものもいれば、喜びを感じる者もいる。どちらが正しいとか言えるものではない。私は美術の教師であったことがあるが、絵の上手な描き方を指導した所で、意味がないと思っていた。どれだけ感じる力を育むことが出来るか。その為には、手を動かし描いてみることがとても大切な作業だと考えた。描いてみないと、感じることが確認できない。感じたように、見えているように描くと言うことが、実はとても難しくて、修練が必要な、教育が必要なことだと考えた。

橋下知事はラクビ―をやっていた。どうも教育が競技スポーツであることを願っているらしい。規律があり、戦いがあり、学校としての統一があり、チームであるような感じだろうか。健康体操ではなく、競技スポーツ的な、オリンピックで金メダルを取れるような教育である。それが間違った教育だとは思わないが、そうではない私が願うような、直接的には役に立たないような農業教育だってある。公教育が教義的に一辺倒になることは間違っている。大阪府の教育基本条例の場合、ある結論がありそれを押し付けることが、優れた人間を作る近道と考えているようだ。美術で言えば摸写が教育であると言うことではないか。競争するにはそれの方が確かに手っ取り早く、上手にはなる。失われてゆく大切なその人の中の掘りだすべきものもある。個々人が持つはずの、その人らしい感じ方。表現の仕方。型にはめることは手っ取り早いが、独創性のあるピカソやマチスは生まれない。

追い込まれたような社会状況の中では、維新の会のように即役に立つことを目指しがちだが、そのやり方の失敗が今の社会状況だと思う。遠回りで、役に立たないように見えるが、他と比べないこと。要領を教えないこと。自らが発見をし育ってゆくことを助けることが必要である。田んぼをやることは遠回りに日本人を作った。田んぼはそれぞれの条件を持っている。一枚一枚違う。水と言うものを通して、他との関係が生まれる。地域が生まれ、他地域との調整が必要となる。良い田んぼは良いお米を実らせ、良い身体を作る。学校教育がない時代、家庭で労働力として役立ちながら、学んでいった。身体で覚えていった。今さら、田んぼなどやっていたら、世界に置いて行かれるというのが大方の考えだろうが、置いて行かれて構わないという覚悟が必要な時代に至ったのではないのだろうか。

昨日の自給作業:三日間で15時間の稲刈り作業 累計時間:16時間

 - Peace Cafe