若く見える法
歳を取るということはどういうことなのか。最近、広告の言葉には、若返るとか、アンチエイジングいう言葉がある。永遠の青年とか、美しく年を取る。こう言う領域の話は不気味で嫌いである。何故若く見えるのがいいのか。年相応に見える事が一番普通で、立派だと思っている。普通を認めない。普通でなく若く見える。若いということが価値あることで、年をとるということを悪いこと。としてはいけないのでないか。若く見える価値は、美しくということを、誤解している。確かに美しいは時代の価値が影響する。韓国ドラマを見ると、美男美女が登場するが、映像としての実在感から、遠く離れていて耐え難いものがある。若く見える法は、もう若くはないという意識を抱えた人に働きかける。だから、化粧品とか健康サプリメントの広告に多くみられる。もちろん、衣料品やファッション雑誌のテーマでもある。若く見えた方が有利である社会。日本もそういう社会なのか。
偉そうに見えるより、幼そうな方が受けがいい社会。上から物を言うより、下手にでる社会。昔、俺を幾つだと思っているのか。こう怒られたことがある。ちょうどこういう価値観からの、離脱が起きているのだろう。お年寄りを尊敬する。こんな儒教的価値観は、風前の灯である。だから、お年寄りは時にこんな場違いな爆発をして失笑をかう。昔は、年配者に見えることを誇っていた人がいた。この効用を利用していた人達が結構いた。仕事などで年配だから有利に働くと言う事があった。年寄ってきたので、こう言う事を復活させようという訳ではない。年寄りの方が知恵があって役に立つという時代ではない。年寄りの知恵など、役に立たない事ばかりである。
人間若いと美しいが、連続であるかどうか。実はこの背景には、美しく年をとれないという哀れがある。年をとって、人間として少しは増しに、良くなってゆく、当たり前のことだ。若いころの方が良かったというのは、日々無駄に過ごしたということである。良く生きてきたという、確信があれば、若く見えたいというような、哀れなことを考えやしない。一方変に若く見えるという人がいる。研究に没頭したような、学者に居る。全く20ぐらいから年を取らない。研究に忙しくて、年をとるのを忘れたのだろう。立派なことではあるが、やはり大切なものが欠け落ちている。生きる切実感の喪失。生きることの身を切られるような本気が、消えている。流転の人生。どうでもいいようなところに、むしろ生きるすべてが集約されてしまう社会。日焼けサロンで、黒くなるような人生は寂しくないか。酔っ払いの高田わたるさんの年寄りぶりは美しい。
高石ともや氏が主婦のブルースという恐ろしい歌を作って歌った。うちの母親もドキッとして、こんなものじゃないと怒っていた。こんなバカな歌詞を書いたのは中川五郎さん。きっと今ごろ、後悔しているだろう。若気の至りである。しかし、ちょうどこの歌通りの「若く見える」なのだ。見えるのであって、あくまで幻想である。本質に向かうのでなく、表面に向かう時代の傾向。今中川氏はこんな歌詞を書いている。
13人の原告が立ち向かう 国のやり方は憲法違反と訴える
賠償のためでなく真実を明らかにして
二度と同じ過ちくり返させないため
ハンセン病の回復者が立ち向かう
大きな世界を変えるのは 一人の小さな動きから