答弁は二つでいい
「答弁は二つでいい」発言の柳田法相の三つ目の発言は「すみませんでした」柳田法相が14日に地元の広島市で開かれた法相就任を祝う会合であいさつし、「法相は二つ(国会答弁を)覚えておけばいい。『個別事案については答えを差し控える』『法と証拠に基づき適切にやっている』だ」と強調。さらに、「(答弁が)わからなかったらこれを言う。何回使ったことか」と続けた。なかなかウイットに富む発言である。案外欧米ではブラックユーモア―で済んだかもしれない。なにしろこの発言まるで、管内閣の閣僚全員に差し上げたいような、素晴らしさである。柳田法相は尖閣問題が頭にあったのかもしれない。答弁はこの二つにしておけと指示があって、腹にすえかねていたのかもしれない。仙石官房長官は「自衛隊は暴力装置」呼ばわりの答弁。これでは「二つにしておけ」の指示を出したくもなる。法務大臣も官房長官も自分の思いを表現してはならない。という自虐的な表現なのだろう。
議会というものは、議論するような場にしてはいけない事になっているらしい。議員同士が、議会で議論しているところは見たことが無い。やっているのはテレビのなかだ。内閣政府に対しては、質問か、演説を行っている。答弁する側から、「あなたの質問はこの点では矛盾していないか。」など反問すらない。一方通行である。たぶん議論してもいいのだが、しないことにしようという慣習的なもの。そもそも議論の習慣がまだ日本の社会にはない。たとえば地域の自治会で議論をするということは、ちょっと空気が違う。議論したら恨みでもあるのかとか。お前は何様のつもりか。となり、変わり者と思われ無視されるだろう。議論をすることで互いの認識が深まり、より高い次元の合意が形成されるという議論は存在しない。結論がどこかで決まっている。そういう世界では、イエスかノーかしかない。それが議会の姿でもあるようだ。
議会という明治の翻訳がいけなかった。議会というから議論を戦わす会かと勘違いしてしまう。驚くことに、議員は個人の意見を述べてはならない。こういう考えの表明する議員も多く存在する。その会派の意見があるというのだ。小田原の市議会では個人の賛否も公表しないことになっている。考えが明確になるということを避けた方が無難という配慮らしい。賛成反対が戸別案件別に意思表示できない議会のシステムに問題がある。一括だから、説明抜きの賛否の結論表明は避けたい。こういう釈明を聞いた。それを変えるのは議員ではないのか。確かに、答弁は二つでいいのだ。議会では質問と言いながら、演説を延々と語る人がなんと多いことか。演説なのだから答弁など最初から期待もしていない。それで仕分けが注目された。仕分けでは議論がある。互いが意見を戦わせている。これは議論力が問われる世界だ。中継が結構面白い。しかし、仕分けをするには予算を勉強しなければならない。これで官僚を上回ることは大変だろう。
仕分けで評価を上げたのは蓮方氏。この人の野党時代の国会質問は鋭かった。このルールでもやりようはあるのだなと、風穴をあけるとはこういうことかと思った。「2番ではいけないのですか」は有名になったが。着目させる名せりふ。これでいいのだ。ここから起こった議論のうねりは、どういう結果であれ良い議論だった。ノーベル賞学者まで登場して、科学予算の重要性を強調していた。学者だって使っているお金について知らなければならない。しかし蓮方氏大臣になって受け身に回ると大したことはない。早くも管内閣は末期的現象に入った。「答弁は2つ」「自衛隊暴力装置」も実は本音ではないか。これを失言問題とか早速名付けてしまう報道の感度の鈍さ。鈍い以上に悪質。