長寿の縄文人

   

縄文の世界には65歳以上のお年寄りが30%もいた、かもしれないという新説。これは縄文短命説を覆すびっくりした大歓迎の新説である。若い学者の主張らしい。この説は一般化するかもしれない。その方が腑に落ちるし。縄文人ファーンの一人としてうれしいからである。なにしろ縄文人の平均寿命は10代前半であり、60歳以上などまずいない。こんな縄文人の姿が言われて来たのである。実に単純なことで、骨の分析方法が進めば、この辺のことは科学的に明らかになる。どちらが正しいかはそう遠くなく分かることだろう。学問というのはこれだから面白い。こんな基本的で単純なことすら揺れているのが学問。不明瞭であっても一つの定説が権威から出ると、右に倣えでなんとなく縄文人短命説が流布する。実はそういうことはまだ正確にはわかっていない世界だ。何でも疑問を持つことは大切である。

縄文人は地場・旬・自給のスーパーモデルである。短命とかは信じたくない。まさに健康生活をしている。弱いものは淘汰される社会。長寿に違いないと昔から思っていた。多分縄文生活を野蛮人生活をしている、推測して短命に違いないと考えた近代学問の世界。学問も時代の影響をもろ受ける。日本は長寿国である。だいぶデーターが怪しげになってしまって、ホントかなという気もしないではないが。最近の届く、喪中の葉書にはご両親が無くなられた年齢がもう一息で100歳という方が少なくない。幼児死亡率が高い社会は実は平均余命は長い。縄文人は弱いものが淘汰されている。事故死も今より多いだろう。しかしそうした試練をかいくぐった人たちは、丈夫だったに違いない。70歳位は結構いただろう。寝たきりになって介護されるかどうかは、ちょっと疑問ではある。幼児の死者は手厚く葬られたらしいが、お年寄りの方はどうだったか。

世界で一番幸せに暮らしているのは、ニュ―ギニアの高地民族である。このように本田勝一氏が新聞記者時代書いていた。それに強く影響を受けた。小学校の担任の先生が、客観的に見て不幸という状態が、福祉の対象である。このように授業で言われた。この人は日教組の組合員で当時国会デモに参加していた。この整合性にとても悩んだ。小学生だから、どのように悩んだかは分からないが、自分はニューギニアに行ってみたいと思い込んでいた。そうしていたら、自分は戦時中ニューギニアに居た。という呉服屋の店員さんが近所にいて、話を聞きに行ったのだが、どうもニューギニアの様子が違っていた。そのあたりから、むしろ縄文人の方が幸せだったかもしれないと思うようになった。それは山村の暮らしを知っていて、東京に暮らすようになったからという、ギャップも影響したかもしれない。

30%もいたという65歳以上にはもう一息だ。62歳程度なら若者と一緒に働いていたことは確かだ。今の自分の身体の実感からして、ついてはいけないが、全く駄目ということもない。役割によってはいけそうな気がする。働けないものは負担な社会であろう。年金も貯金もない。あるとしたら知恵であろう。経験と伝承という知恵は、重要だったに違いない。私は自給自足の知恵を蓄積してきた。白菜とキャベツがこの舟原ではどう違うか。こういうことなら、分かってきた。狩猟と農耕は異なるということは当然だが。縄文人が狩猟採取だけではないということは、だいぶ証明されてきた。次の時代には、私が今溜めている知恵も、役立たないとは限らない。一日1時間100坪の自給。今年はタマネギを本気でやっている。もう一息である。

昨日の自給作業:タマネギの準備1時間 累計時間:14時間

 - 自給