山口小夜子さんの死去

   

山口小夜子さんは同年代だ。大昔、パリで何度かお見掛けした。私の暮していたアパートは、実に不思議な場所だった。サンフロランタン通りに面していて、サントノーレ通りからドーモ広場に抜ける賑やかな通りだ。実はここは娼婦の家で、それをカモフラージュする為に、外国人に貸していた。何年か前に通って見たら、一回に羊羹のとらやがあったので驚いた。虎屋の上の5階に住んでいた訳だ。ボザールに美術学校に通っていたので、セーヌ川を挿んで反対側と言う事になる。学校には毎日勤勉に行っていたので、行き帰りどこを通ろうかと言う事になる。ルーブルの中を抜ける近回りもあって、かなりの頻度で通った。オランジェリーもそばと言う事で、よく休みに行った。時に、サントノーレ通りを回って帰る事がある。画廊が沢山ある通りなのだ。衣料品のお店も沢山あって、そこに、高田賢三氏のお店があった。

そのお店は、ちょっとコの字に通りから回り込んだところだったが、通るとわざわざ回って見た。ファッションなど全く興味が無かったのだけれど、隣の部屋に暮していた。Kさんというかたが、デザイナーの方だった。その人が親切に門外漢の私を、案内してくれたのだ。kさんは足が悪かったので、あちこちと一回りする時に一緒について行ったりもした。それでファッションデザインという世界に、関心が開かれた。賢三さんのお店は素材がすごいのだ。今では結構普通に成った、素材そのものを感じさせる、デザインが目立った。その頃、山口小夜子さんが、パリで一番のモデルに選ばれた。そうしたコレクションにも当然Kさんは出かけていたので、山口さんがすごいという話を何度も聞かせてくれた。室町のようないでたちで登場するのだそうだ。それで、賢三さんのお店で2,3度見かけた。なるほど、オーラを放っていた。

でも私は三宅一成氏の方が好きだった。その頃は山本寛斎氏の事は気づかなかった。ともかく日本人のデザイナーがパリで活躍する。そのことは嬉しかった。そうだ、頭髪のデザイナーも日本人のすごくい人がいて、ボーグの表紙を飾る女優さんのかみを、日本人の方がやっていた。何と私はその人に頭を刈って貰ったことがある。カトリーヌドヌーブやミレーヌダルクをやる人が、私の汚い頭を刈ったのだ。日本人も絵を描くの、と言うぐらい日本人の位置は低い状況だったので、藤田がいるというぐらいで、日本の絵画に関心を持つ、ボザールの学生はいなかった。その中で、山口さんの活躍は、何となく誇らしかった。

最近ではパリのファッションショウにでる人も結構いるようだ。と言って、山口氏のように、表現者として、出て行っているわけではない。山口氏がいたから、パリでの日本人デザイナーの活躍は始まったといわれていた。日本人らしさが、個性として表現される。その為には山口さんの存在は不可欠だった。その頃考えていた。「よりナショナルな物こそ、インターナショナルだ。」その言葉を久し振りに思い出した。それは、棟方志功さんの作品がセンセーショナルな高い評価で迎えられ、東山魁夷さんが、評価なしだった。展覧会には人影も無く、石の壁に弱弱しく掛けられていたのが、印象的だった。本当の世界に通用する文化というのは、土から生まれてくるような、根の張ったものだと言う事を理解した。カヨ子さんの話だと、山口氏が楊先生の太極拳の教室に見えたとき、「今日は良い空気を感じさせてもらいました。」そう挨拶したそうだ。

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