不思議に命が助かった体験
2026/02/18

76年生きてきて、死んだかと思った瞬間が3回ある。死んでも不思議ではなかったと思うのだが、ワープするように瞬間移動して助かっていた。なにかに助けられたとしか思えない。生かされてている。まだ生きてやることをしなさいと言われたような気がした。
守護霊とか、守護天使とかがいて、助けてくれると言うが、そう思いたくなるようなことが3回あった。3回あったと言うことは、気づかずに助かったことがあったのかも知れない。生きていると言うことは、いつも死ぬこととの瀬戸際にいるのだろう。
命あるものすべてがそうなのだから、自分もそうに違いない。何時死ぬかも分からないのだが、それが分かるのは死ぬときなのだろう。あと23年100歳まで生きるつもりなのだが、76歳の今まで生きて来られたことは、努力ではなく運が良かったおかげだ。
1度目の死ぬなと思った体験は昭和30年のことである。70年前の6歳のときのことだ。いよいよ小学校に入学する直前であったので良く覚えている。6歳ではあったが、気持ちは一丁前であった。小学校に行くのでやたら興奮して、張り切っていた。
世田谷郵便局の郵便物を整理する大きな建物が、切り立った崖の下にあった。崖の上に郵便局を取り囲む万年塀があった。子供はこの万年塀を乗り越えて、郵便局の敷地に入り込み、何かしら遊びを見つけていた。郵便局のさらに裏側には、多摩川電車の線路敷きがあった。
万年塀は1間の高さがあったはずだ。その万年塀に直角になるように、4メートルもある高い木の塀が建てられた。世田谷通りに面した工事現場を取り囲む為のものだった。そのあたりには、小さな戦後のバラックが密集していて、そこをすべて取り壊すためだった。
そこには飲み屋もあれば、仏具屋やら、古着やさん。釣具屋さんなど、様々なお店が通りにはあって、その裏にはその飲み屋街から出る残飯で養豚をしていたなみがいさんと言うおじいさんがいた。不思議なことなのだが、そこには畑もあったのだ。
と言ってもこのバラック地帯は立ち退きが強制されてもめていた。そしてついに塀が建てられたのだ。世田谷通りに面するお店はそのままだったのだが、その裏はぐるりと高い塀で取り囲まれてしまった。その塀にはなにか大きな紙が貼り付けられていて、裁判所の立ち退き命令だと言うことだった。
万年塀の上にはよじ登る道筋があり、万年塀の上を平均台のように、スタスタ歩いていたのだ。崖の上のポニュだ。崖下から見れば、4mはある塀の上を綱渡りするのが、勇気だった。少しも怖いことはなかった。万年塀に突き当たるようにさらに高い木の塀が出来たのだ。
そうなると、この木の塀にもよじ登りたくなるのが子供だ。怖いとか、出来ないとかは全く考えずに、登るものだと思いただよじ登っていった。木の塀の万年塀側の側面を登った。そして難なくてっぺんまで登った、と思ったそのときである。
手がなにか濡れた泥のようなスベルモの触ってつると抜けた。郵便局側にのけぞるように落ちていった。ああ落ちる下には万年塀を支えるコンクリートの角張った支えがある。あれに当たるのかと思ったことは覚えている。その後が不思議なのだ。
身体が浮遊したかのように静かにコンクリートの塊の上に静かに着地した。静かに目を開けると高い塀と青空が見えた。どこかケガをしていないのか、痛いところはないのかと思うのだが、全く何でもない。きょとんとして家に帰った。このことは誰にも話さなかった。話せばもう遊びに行けなくなると思ったからだ。
2回目の不思議に助かった体験は、境川の堰堤から落ちたことだ。堰堤の下に深みが出来ていた。その深みを広げて、泳げるようにしようとした。境川も当時はまあ水が十分にあった。夏である。強い太陽が強烈で、暑かったことを覚えている。
堰堤の高さは4mほどあった。堰堤の下には大きな石がゴロゴロしていて、深みがあった。深みを広げて、深みの下に土手を作れば、泳げるプールが出来ると考えたのだ。たぶん小学校3年生ぐらいだったと思う。こちらは正確な年限は忘れたので、4年生の夏休みだったかも知れない。
このときも1人で遊んでいた。土手を作る石が足りなかったので、堰堤の上に沢山ある石を堰堤の下に落として、土手を積み上げることにした。このプール作りは何日もかけてやっていた。だんだんプールが深くなり、ますます熱中した。
堰堤の上の石もだんだん種が尽きて、適当なものがない。そこでやや大きめの石をゴロゴロ転がして運び、持ち上げて落とそうとした。すると落とすはずの手が石を強く持ったまま離れない。危ない、ダメだと思いながら石を抱えたまま転落した。
気づくと河原に座り込んでいる。白く強い太陽の光に反射する石の山がみえた。どうなったのかが分からない。一度気絶したような気がする。あるいは浮遊して石原に降りたような気もする。ただ、身体は何も異常がない。あの思い石を抱えたまま落ちれば、どうなっていたのか。
その日は石積みを終わりにして帰った。狐につままれたようだ。こわごわ河川敷に行ってみると、確かに大きな石がごろんと堰堤の下に転がっていた。妙な不気味さにとらわれて、プール作りの熱狂から冷めた。プールは出来あがったのに泳ぐこともなく、終わった。
3度目はつい最近のことだ。車の衝突事故である。石垣の一番の繁華街で居眠り運転の車が、車線を越えて向かってきた。これはダメだと反対車線にむけてハンドルを切ったのが、間に合わなかった。ハイエースと軽トラの衝突である。
互いの左ライトあたりがぶつかった。かわせるかとすんでに思ったのだが、向こうが全くかわそうとしないのだから、間に合わなかった。相手の速度はかなり速かった。こちらの車はくるくると回わされながら、後ろに飛ばされていった。
気づいたときには反対車線のいつも行く床屋さんの駐車場にとまっている。飛ばされている間は、ぐるぐる回されているというのは分かったのだが、何故か、歩道の縁石が切れたわずかな位置に、綺麗に飛ばされて、収まっているのだ。
対向車も私の車も全損でめちゃめちゃである。救急車が来てくれて、すぐ八重山病院で精密検査をしてくれた。あれだけ車が壊れて、何でもないはずがないから検査した方が良いと言うことだった。所が互いに何のケガもなかった。どういうことだったかと思えば、運が良かったというしかない。
私以上に運が良かったのは、対向車である。私に当たらなければ、間違いなくホテル前の電柱にぶつかり、たぶん命がなかっただろう。ブレーキもかけずにそのまま電柱に衝突したはずの、方向に走っていた。私の車が当たることで向こうの車は何とタイヤの所が挟まりブレーキになり、回りながら止ったのだ。
3回、理由が分からないほどの、偶然で、死ぬかも知れない事故なのに、何のケガもなく救われた。3回とも死んでいた可能性はあった。しかし、まだ生きている。まだ生きて絵を描ける。有り難いばかりだ。誰かが、なにかが、生きる方を選んでくれたような気がする。
この命をあと23年大切にして、生きようと思う。私が生きているのは、生かされているのだと思わざる得ない。