動禅を舞いと考えるようにした。

朝行う動禅を、舞を舞うと考えてやることにした。到底舞いなどとは言えないものであるのは承知だが、自分なりの舞いを舞うつもりでやることにしたのだ。人に見せるわけではない。動禅を禅の修行のつもりでやるのはちょっと違うと思うところがある。
舞いの意味はよく分かっては居ないのだが、舞いというものは本来神の前で行うものなのだろう。神の前で回ることで神を下ろすと言うことが舞いの始まりなのだろう。回ることで神がかりになるというようなことがあるのかも知れない。
動禅には、スワイショウ、八段錦、立禅、太極拳、と大きく分ければ4つになる。それぞれ行うに当たって、心境は違うと思うのだが。起承転結と言うことになるのだろう。結としての太極拳が特に舞いという意識を持つことにした。意識で動きが変わるものなのだ。
舞いだと考えると自然と動きに緩急が出来る。ゆっくり動いたり、止めたり、ある程度は止めて動くところも出てくる。マイデアルイジョウあくまで水平移動になる。水平移動するときに力を入れないで移動して行くようにしている。
今までは禅だと考えていたので、まったく動きは一定であった。意識してゆっくりゆっくり動いていた。それも一つの方法なのだと思うのだが、今年に入ってから、自分の動きをどこかか外から見る眼が出てきた。そうするとこれは舞う方が良いと思えてきた。
そうなると、ただゆっくりだけでは目的にかなっていないような気がしてきたのだ。太極拳は結局の所、体操ではなく一つの舞いなのではないか。太極拳という健康体操ではなくて、能の舞いのようなものではないか。と思えてきたのだ。能の舞いもいくつかの形に分かれている。
早く動くところもあれば、動いてはいないのでは無いかと言うほどゆっくりのものも在る。いずれにしても能のような舞いと太極拳を考えることにした。そのように考えるだけで動きがすこしづつ変わってきた。まだ3年目だから、無様なものである。というか、いつまで経ったところで、人が見れば偉そうに何を言うかとなるのだろう。
すべては自分の問題である。自分が舞を舞うなど考えても居なかったことだが、これは見る人の意識が自分の中に加わり、動きが舞いと言うことを考えた方が良いかと思うようになった。ともかく先のことはまったく分からないのだから、形から入るほかない。
動禅は分からないからやっている。いくらか健康には良いのだろうとは思う。しかし、その他のことは皆目分からないままだ。それでもなんとなくこの方角の先には、良さそうなことがありそうな気になる。それで続いている。もう1000日は毎朝に近くやっている。
すると、過去に出来なかった動きが出来るようになっていることがある。最初はこれは出来ないだろうと思えた動きが、1000回も繰り返せば、なんとなく出来るようになる。これは感動である。この歳になり、まだ新しく出来るようになる身体の動きがあると言うの嬉しい。
しかし、足上げの形の安定性は相変わらず無い。ふらふらし通しである。まあ、言い訳としては眼を閉じてやっていると言うこともあるが、何時までも進歩がない。だけれども、出来るようになる動きもあるのだから、続けていればもしかしたら、出来るようになるかも知れないという希望はある。
筋力の衰えは年々目立つから、出来るようにならないかも知れないとも考えている。しかし、出来るようにならないぐらいなら、なおさら続けなければならないと考えている。足腰が弱れば、農作業が出来なくなる。後4年の言う作業が出来なければ、のぼたん農園が完成しない。
舞いであった。能の動きを思い出しながら動いている。どこにも力の入らないような動きである。幽体離脱したような動きである。天井から自分を眺めているような、臨死体験のような動きである。身体から力みが抜ける動き。何も力を入れないで移動をする。
琉球舞踊でもそうした動きがある。静かにゆっくりと手を挙げるだけでも、そこに込められた、精神の集中したものが、伝わってくる。錯覚なのかも知れないが、琉球舞踊の中に、そうした神秘性がある。それは神殿で神楽を舞う巫女さんの動きも思い起こす。
能舞台でもそうした緊張感が張り詰めているのだが、私には女性が舞う琉球舞踊の方に、巫女さんと同様に強く感じるものがある。何か幽玄な世界が身体を持って表されている。琉球のノロや恐山のイタコなどにある、自然宗教の神がかり的な物は、やはり女性の世界のような気がする。
何も、神がかろうというわけではない。気持ちを込めて行くには、禅よりも舞いという意識の方が良いような気がしてきただけだ。まあその方が凡人の私には分りやすいと言うことのようだ。今年に入ってそんな気持ちでやっていたら、少し良いようなのだ。意欲がいくらか増した気がする。時間が安定してきた。
太極拳は12分でやろうと考えている。12分の合図の太鼓が、終わりの深呼吸を始めるその時にどんと鳴る。動きが一定になってきたと言うことではないかと思っている。太極拳24式を12分というのは陽名時先生が言われた時間だそうだ。
今の太極拳はユーチューブで見る限り早い。中国のものなど、半分の6分ぐらいのようだ。どう考えても舞いと言うより曲芸である。先ずは形から入り、時間だけはこだわって12分にしようと考えてきた。ドン、ピシャト終わると、なんとなく気分が良い。それだけのことだが、速度を安定させるためには舞いという意識は悪くない。
舞うと言うためにはいくつか気を付けていることがある。一つはすでに書いた緩急がある。緩急と言うことは止めるところも出てくる。スーと動いて大体3つくらいの感じで動きを止めるのだが、これも動きとの兼ね合いで止める時間はいくらか違うようだ。
そして重心の下げ方、重心はかなり低い方が良いと思うのだが、低いままの平行移動が何にまして重要な気がしている。重心が上下動しない。静かに自動的に動いているかのようなのが一番良い。と思っているだけで、本当にそうなのかどうかは分かって居るわけではない。
まだまだ、時間はかかりそうだ。身体の動きというものは繰り返していないと、身体が覚えてくれない。見た目で格好を付けて動くのが最低だと思う。能や琉球舞踊で、気取りを感じさせるようなものは意味が無い。無様なようであるのに心が込められているというのが憧れである。
まだいくらかずつは進歩している。いつかは前で来た動きができなくなると言うときが来るのだろう。スタートのレベルが低いので、その点今のところは、少し進歩しているようだ。阿身体が動く間に何とか、舞えるようになることを目標にしたい。